日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

APMキャラクターエッセイ②「鉄火のコマキちゃん」

 

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鉄火のコマキちゃん

https://tgws.plus/anpandb/

アンパンマンデータベース」なる異常に熱心なファンによるサイトを発見した。もはや狂気の沙汰である。

前回のてんどんまんを巡る考察の中で(あまり巡っていなかったが)中心的な課題であったのは、キャラクターのモチーフとキャラクターの距離感だった。思いがけずてんどんまんに死刑宣告を下してしまったが、思い返せばもう少しフレキシブルに対応しても良かった。それはともかく、今回の事故物件である。

https://tgws.plus/anpandb/tekkanokomakichan

ここに大体全ての情報が網羅されている。そこにはこの中途半端な知名度のキャラクターが第二回に選ばれた唯一の理由もある。

 

鉄火巻きを作るのが下手!

 

は?

前回、たけのこの里を開けたらきのこの山が入っていた。今回は、たけのこの里を開けたら、何も入っていなかったのである。とにかく明るい安村が鬱を患った挙げ句、履いていないのである。そして、当然の疑問が噴出する。

「じゃああなたは何なんですか?」

 

 

ピコ・デラ・ミランドラは「汝自身のいわば自由意志を具えた誉れ高き造形者にして形成者として、汝は、汝が望むような姿で、汝自身を模ることができる」と述べた。

またボーヴォワールは、よく知られているように「人間は女に生まれるのではない。女になるのだ」と述べている。

ひょっとすると壮絶な勘違いをしていたかも知れない。APMワールドの住人は、必ずしもアプリオリに固有の属性を備えているのではない、という点に全く思い当たらなかった。前回の飲食物系キャラの大雑把な区分の本質は、畢竟アプリオリとアポステリオリの相違に帰着するのかもしれない。

アンパンマンは、おそらくあんパンの呪縛から逃れることは出来ない。それは、アンパンマン関連コンテンツがあまりに成長・浸透してしまって今更路線変更できない的な事情とは少しも関係なく、ひとえにアンパンマンが「アンパンマン」に生まれてきてしまった事情による。ピコ的に非人間なのである。

一方コマキちゃんは、この適性のないキャラクターの方向付けを、まったく自然に撤回することができるのかもしれない。頭頂部の筒状のオブジェクトが、まげなら下ろし、異形の頭部の一部なら適当に誤魔化して、喋々と好きな身分を名乗ればよいだろう。まず巻物系は全般いける。コ恵方巻きちゃんとして、節分限定キャラに徹してもよい。先のデータベースで検索したが、節分関連は手薄なのでチャンスだと思う。なんなら、円筒形のシルエットでも全般いける。というかそれなら別に、頭頂部を気にする必要すらない。ただどうも、「絶望的に」適性がないのだという。おそらく鉄火巻き路線を変更したところで結果は知れているだろう。

 

そういえば、というか寧ろ先に書くべきだったが、鉄火のコマキちゃんは鉄火のマキちゃんに憧れて鉄火巻き路線を歩んでいるらしい。驚くべきは「先客」がいるという事実である。

これも少々自分の従来のイメージに反する。ワールドの住人たちは、それぞれ自分の守備範囲、ニッチをそれなりの厳密さで認識していて、それぞれの分に安んじているものだと思っていた。八百万の神的なスタンスでやってるのだと思っていた。前回行ったてんどんまんリサーチの一環で視聴した「てんどんまんとしらたき姫」では、てんどんまんがしらたき姫に「しらたき二刀流」の伝授を乞うシーンがあったが、そのとき「出過ぎたマネをするな」と内心思った。カレーパンマンばいきんまんとの交戦中に「アンパンチ」なんかしたら、その後アンパンマンに呼び出されて工場裏でボコボコにされると思う。「食べ物性」が一つ目の禁忌なら、「"分際"を弁えないこと」は二つ目の禁忌だろうと思っていた。

前回少々触れた、てんどんまんの哀歌があった。てんどんまんは健気にも(?)丼の米にも非常に気を遣っていた。また、おむすびまんとかいう変態もいるが、考えたら、てんどんまんはワンチャンおむすびまんに転職することも可能ではないのか。もしてんどんまんの米へのこだわりが高じて、おむすび界隈に進出したら、いや、寧ろ最悪なのは、何らかの方法でまぐろを仕入れたてんどんまんないしおむすびまんが鉄火巻きなんか作り出したら、沙汰である。きっと、コマキちゃんはイオンに潰される商店街と同じ末路をたどる。マキちゃんはいるが、コマキちゃんのマキちゃん劣化コピー感は限りなく高まる。しかし、それは今までなあなあにされてきた事実が暴かれただけなのだ。

 

コマキちゃんはさながら地獄に落ちたカンダタである。お釈迦様が情けの蜘蛛の糸を垂らすなら、それは先のアポステリオリ説しかない。ここで引き下がると、コマキちゃんに起こっていることはただの「猿の惑星」である。

では、じゃあ我々とコマキちゃんでは、一体何が違うのか。私が水上颯大先生に勝てそうなことといえば、遊戯王の知識ぐらいである。水上先生が遊戯王の勉強(?)をなさった瞬間、私は死ぬ。私はコマキちゃんである。

しかし、明確な相違点がある。「死」の有無である。

究極的な可能性である死への覚悟を定めることよって、はじめて世界を「企投」していくような能動的な存在のあり方が可能になりうるとハイデガーは言う。ワールドの有象無象は、一人残らずのうのうと生きている。勝手に生かされているだけなら、生に価値など必要ない。ホウキは塵を掃ければよく、人々は生かされているだけでいい。連中は、何のために生まれて、何のために生きるのか、分からないまま終わるだろう。

コマキちゃんがいつか自宅で東大王を視聴しているときに、ふと己の生の虚しさに思いを馳せ、巻き簀に顔を埋めて号泣する。そうするうちに必ず、「自分が自分自身であること」にまで立ち返って全体を俯瞰しなければ何も確かなものは得られない、というデカルト的見地に至る。もしくは仏教的に生を”諦め”るだろう。そうすると、ついにネバーランドから解放される。

この芸当はアンパンマンには到底できまい。病的な使命感に生き、熱烈にもてはやされるこの御仁は、永久に錯覚し続け、APMワールドに留まり続ける。