日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

バットの釘

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鬼滅の刃より

マイケル・ジャクソンは生前、終電が去った深夜の名駅・うまいもん通りで「ムーンウォークで前進」することを試みたことがあった。結局彼は始発で野並まで帰った。

 

彼の試みが虚しく失敗したのと同じ理屈で、「意図的にうっかりする」こともできない。うっかりしようと意図した時点で、そこには意識が働いているからである。

日常会話はおおよそテンプレのコンビネーションからなっている。それが日常会話だからである。だがひとたび何らかの「言い難きを言」おうとすると、たちまちそこに「冒険的な比喩」や「不慣れな用語」の必要が生じる。

 

「バットの釘」はその類いのものである。 

 

「バットの釘」とは何か?

素直に解釈すると「バットに属する釘」という風に考えられる。ところが普通、釘はバットに属していない。「アンタッチャブルの児嶋」みたいなことを言っている。

それでも情状酌量の余地がある。「釘バット」という代物を人類は確かに生み出していた。アンジャッシュ児嶋がいくら相方のスキャンダルに託けても(おそらく)アンタッチャブルには加入できないのに対し、バットはさりげなく釘を受け入れる懐の深さを備えているのだ。

 

まず、釘バットはバットなのか? 

ドラゴンボールゴジータはこのように言っている...「俺は悟空でもベジータでもない・・・・俺は貴様を倒す者だ!!」。

ほなバットとちゃうやないかい!ただ、ゴジータはただ悟空がベジータを肩車しているわけではなく、強さも乗算的に飛躍しているので確かに融合素材のどちらでもないだろう。一方の釘バットは、バットに釘が刺さっているだけだ。同列に比較するべきでは無いかも知れない。結論を急いでしまった。

スライスしたトマトとモサモサ系のチーズは、交互に並べるという極めて呪術的な操作を加えると「カプレーゼ」に進化する。そう言うからには、おいしさに飛躍があるのだろうか。

というか、野球の試合で釘バットが使われているところは見たことがない。どんなにガラが悪く、卒業式で特攻服が散見されるような工業高校の野球部でも、まさかそんなことはしないだろう。

やはり野球で使われる限りの「バット」だろう。縄文人スマホを渡しても、「打製石器」として使うだろうし、彼らの中でそれは我々の呼ぶところの「打製石器」とみなされるだろう。スマートフォンがそう呼ばれ、かつそうあるためには、それが(当初意図されたとおりに)スマートに使われる必要がある。

こう考えると、釘バットはやはり釘バットだ。このごろ東高のシマを度々荒らしにくる困った西高のゴロツキどもに思い知らせてやるために釘バットは存在する。

 

であるから、釘バットに釘は属しているが、バット自体にはやはり釘は属していない。仮に「バット∋釘バット」かつ「バット∋釘」であるからといって「釘バット∋釘」とはならないが。

「バット」の方を検討するのは難しそうであるから、こうなると「属し方」を検討するしかない。

 

あらゆる木製バットは釘バットへと進化する可能性がある。それと同様に、あらゆる釘は釘バットの構成要素となる可能性がある(五寸釘の刺さった釘バットなんか、変にものものしくてイカしていないだろうか)。

この意味で、あらゆるバットは可能的に「釘バットのバット」であり、あらゆる釘は可能的に「釘バットの釘」である。そして任意の釘は、適当なバットが存在して可能的な「そのバットの釘」なのである。

これは紛れもなく暴論である。日本では同性婚が認められていない。上の理屈でいけば、あらゆる戸籍上の未婚女性は可能的に戸籍上未婚男性である小生の配偶者であることになる(あるいは、既婚未婚は関係ないだろう)。サイコホラーな言明であるが、どのような場合も適当な悲劇的な(!)経緯の結末として考えられうる。それでも、全ての女性は小生の配偶者ではない(なんだ、この怪文は?)。

あるいは、小生が意中の女性の弱みを握ってデートに誘う。ルイ・ヴィトンのことを釣具屋と勘違いしている小生はロレックスに来店する。入店すると開口一番、「この店内で売ってる品物で、私が将来的に絶対買うことができないものはない。つまりどの品物も私が買う可能性があり、可能的な私のものなんだよ」とそこそこの声量で言い放つ。訝しむ店員に「可能的な犯罪者」として入店拒否されると、抵抗して店員を殴打した小生は無事お縄になる。

 

全ての釘は「可能的なあるバットの釘」であるという。

というかまず、バットに属するとはどういうことか?

「属する」という状態は、「何かの部分である」ほかに「何かに所有されている」ということでもある。バットは「所有」という行為を行わないので、バットが何かを所有するためには、人間がバットに何かを与えるしかない(釘など)。

例えばバットケースはそうだろう。バットケースはバットを納めるために存在している。「このバットのバットケース」は妥当な表現である。

 

ここで、我々は釘バット問題の核心に到達する。

まず、釘とバットがある。この時点でこの釘は「可能的なそのバットの釘」であることはさきほど見た。そして、その釘を実際にバットに打ち込むと、その釘は「そのバットの釘」になるか?

それは「その釘バットの釘」ではないか?

釘バットはバットではない。釘バットの部分としてバットを認めるとしても、部分としてのバットに釘が属している訳では無い。「釘バットの部分であるところのバットの釘」は意味をなさない。

簡潔に言うとこうなる。釘バットが完成するまで、どの釘もそのバットの釘ではない。釘バットが完成してしまった時点で、今度はバットがバットでなくなる。この変化はデジタルだ。ちょうど、「バットの釘」とは赤信号と青信号が両方点いているような状態なのである。

 

この2アウト2ストライクのシチュエーションで、一発ヒットを打つ。

実際にバットに打ち込まれるまで釘がそのバットのものだと見なされないから、こういう問題が起こる。確かに、先述の「可能理論」は、裏を返せば「実際にバットに打ち込まれるまで本当にバットに打ち込まれるかわからない」ということでもある。

では、(例えば、より強い痛みを与えるべく禍々しい形状をした)「釘バット用の釘」が存在すれば?「釘バット用の釘」は、釘バット制作に供されることがはなから意図されている。

 

すると次のような疑問が生じる。「釘バット用の釘」と普通の釘はどのように違うのか?

制作者の意図説。東高の卒業生で「釘バットのリュージ」の名前を知らない者はいない。中学時代野球の全国大会に出場したこともある豪腕のリュージである。彼にとっての釘バットは、武士にとっての刀だった。高校を中退後、定職に就かずフラフラしていたリュージは、たまたま元気にヤンキーをやっている後輩たちを目にすると、かつて釘バット片手に仲間たちと暴れ回った青春の日々を想い出す。彼は思い立つやいなや早速、西高のチンピラに最大の苦痛を与えるような形状で釘を鋳造し(!)それを「釘バットの釘」として売った。

するとリュージのこだわりは見事実を結び、建材としてバカ売れしたとする。

それでもそれらの釘は「釘バット用の釘」なのだろうか。 

 

つまり問題は、釘が「釘バット用の釘」となるのは、そのように意図されて製造されたときか、そのように利用されているときか。これを「原因説」と「結果説」としよう。こういう時はもっと卑近な例で考えるのが得策だ。

ケース1,非常食。昨今は「ローリングストック」などといって、非常食を蓄えつつも順次消費するスタイルが推奨されていたりする。非常時に食べるから非常食なのか、非常時に食べるために作られ乃至購入されたから非常食なのか。非常時にたまたま(心理的に)今にも腐りそうなテカテカのサバが手に入ったとき、それを非常食と呼ぶか?店でカンパンを買うも、食い意地張って家までの移動中に完食してしまった時、それは非常食だったのか?

これは、正義に関する一つの重大な問題にも関係する。すなわち、ある行いが良しとされるのは、良き動機によってそれが行われたときか、あるいは行いが良き結果をもたらしたときか?

急にとんでもない強敵と対峙する羽目になってしまった。インセクター羽蛾が急にオベリスク出してきた程度の驚きはある。

 

つまり。「結果説」をとるなら、「バットの釘」は幻となる。「釘バットの釘」を無意味に抜き差ししながらすすり泣くしかない。

「原因説」をとるなら、「釘バット用の釘」という珍品を世に生み出した上で、「未然的な釘バットの釘」という体で「バットの釘」と言うことができる。ただし、あくまでそれは仮であることを忘れてはならない。

 

このような同様の問題を考えることが出来る。魔改造したスズキの中古ワゴンRで過去へ飛んだマーティが自分の母親を発見したとき、彼女を「ママ」と呼べるのか。彼女はその時点では彼のママではないからだ。

「未然的な釘バットの釘」という常識の裏路地のような概念は、この際切り札のような存在でありうる。

 

例えば、今から右手を「チョキ」の手にするという動作が、全く無事に遂行される確率はどれくらいなのだろうか。次の一瞬間からどんな荒唐無稽なシナリオが始まっても、それがおかしいということはどうも、ないらしい。