日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

腎臓を病んで入院したが、病院が潰れて取り残された。そのせいで、母の年忌の法要に出席できなかった。病院の受付の書類をめくっていたら、宛名が私の、失礼なくらい簡素な書簡が、昨年に父も他界したことを伝えていた。それがいつ届いていたのかも分からない。

友人は、私がここへ来る前に、入院生活は暇だからと言って、中里介山の『大菩薩峠』のはじめの三巻を貸してくれたが、もう返す当てがない。当初は読み切る前に退院するだろうと考えていたが、結局今まで五度も読み通してしまった。第三巻を五度読み終えたところで第二巻をどこかへ失くしてしまったので、もう読む気がしない。

はじめ私は3階に入院していたが、暇を持て余した私は日ごとに病室を変え、遂に最上階の9階に落ち着いた。無人の病院の最上階にいると、外界から完全に隔絶された感じがした。だがやがて、隔絶された感じさえ無くなった。つまり、そもそも外界が無かったものに思えた。それまでに、どれだけ時間が経ったのか分からない。

ある日ベランダへ出ると、階下の欄干の日向にグレーの斑の毛並みをした鳥が数匹、互いに身を寄せ合っているのが見えた。これらの生物は、抜け殻のようなこの建物におよそ調和していなかったので、私はそれを風景と見過ごすことができなかった。自分の手指の本数を疑う人が自身の掌を凝視するように、私はかの生物を凝視し、そこに全く穏やかに横たえられている重大な問題を暴き出そうとした。しかし相貌がなかなか立ち現れないうちに、私は次第にそこに漠然とした恐ろしさを感じ取って、そこを立ち去った。

その日、私があのなんでもないように思われる風景から見抜けなかった事態が、以後常に私の視界に表れる世界の背後で、予想だにしない野望を秘めつつ蠢動してるように感じた。誰も知らない咎で拘留される被疑者だった私は、その日その瞬間から、何の前触れもなく、牢に入れられた死刑囚になった。

鳥は翌日もいた。私は鳥を貫くほど凝視した。しかし、私が深刻になればなるほど、眼前の風景のあまりの平穏無事さが気味悪く気色悪いものに思われて、耐えかねた私は両手で顔を覆いながら病室へ逃れた。

私は、床と壁が分からなくなっていることに気づいた。どこまでが床で、どこからが壁なのか、直ちに判別がつかない。そのためか、部屋中のものが遠ざかっているように感じる一方で、部屋自体は私を圧迫してくるように感じていた。居たたまれなさをずっと腫瘍のように抱えながら、ではいざその場を離れるとなると俄然不安が募り、結局ためらってしまう。それで、私はとても眠れなくなった。その夜であるが、絶え間ない不安から唯一解放される時間であるはずの眠りを禁じられた苦しみは、一通りではなかった。

翌日も鳥はいた。私は復讐するつもりで、例の如く鳥を凝視した。しかし一体、この風景にはちょっとも疑義を抱くべき箇所が存在しない。私は部屋へ逃げ込むとすぐに、また今晩も昨晩と同じ、あるいはそれ以上の苛みに喘がねばならないことを理解した。それどころか、明日、また明日と、日々苦痛が増していくのだと考えると、もういてもたってもいられないのだが、それと比例する心細さにどこへもいかれないのだ。

思考を巡らせるうち、私は呼吸が分からなくなり出した。次に息を吐けばいいのか吸えばいいのか、考えると判断が出来なくなった。だから、私は向いのベッドが遠ざかるのを怯えて見送りながら、必死に呼吸から意識を逸らすしかなかった。そのように呼吸のことを考えないということを常に考えていると、脳震盪のような頭痛がし出した。

それから数日、私はよく耐えた。というのは、数日の後にまだベランダへ出るだけの体力を残した、という意味においてだ。私は、もう何も分からず、ただ常に、無限に生じる苦痛を最小限にすることだけを考えつつ、こぼれ落ちそうな眼球を辛うじて眼窩に保ちながら、ベランダへ出た。

鳥はいた。私は視力を使い切るような気で、鳥を凝視した。それでもこの風景は、いつもと変わらず、微塵も変わらず、どこまでも、あくまで平穏無事だった。私は咄嗟に目を閉じた。そして窓枠に身をもたせた。私は心中で繰り返した。風景は、やはり平穏無事だった、平穏無事だった、・・・。

なんと、平穏無事だったのである!他の何もかもが無事でなく、グズグズに崩れた今でさえ、この風景は、否、この風景だけが、不自然に、全く不自然に、全き無事を貫いているのである!

私は、数秒前ではあり得ない身のこなしでベッドの脚のところに転がっていた『大菩薩峠』の第三巻を拾い上げ、それを鳥に向かって投げつけた。すると文庫本が直撃した鳥は、忽ちバラバラに砕け散った。鳥は、精巧な作り物だったのだ。それを見た途端、私の肉体と精神を隅々まで蝕んでいた異常が、興奮の熱で蒸発したように消えて無くなった。代わりに、その熱で全身が焼かれているかのように疼いた。同時に、腹の底からマグマの如く叫び声が湧き出てきた。

私は突風のように部屋から走り出ると、8階へ下る階段を駆け下りた。そして7階へ下り、続けざまに6階、5階、4階へ下り、3階へ下りたところで、私は立ち止まった。

私はあたりを見回した。だが、そこから下りる階段も、エレベーターもなかった。