日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(7):天性の料理人について

感染症文学」というジャンルを具体的に定義できるのか知らないが、昨年の上半期には世相柄カミュやデフォーの小説「ペスト」が脚光を浴びた。これは全くの憶測だが、これらの小説をヨイショヨイショと持ち上げていたのは、改元の際に万葉集をお買い求めになられたような紳士諸君なのではないかと思っている。「ペスト」をヨイショしていた紳士方は、おそらく自分の本棚で静かに息を引き取っている万葉集のことなど毫も記憶にないだろう。これは憶測であるだけでなく偏見でもある。字数稼ぎだと思って読み飛ばしてほしい(後になって言うのもなんだが)。

 

チフスのメアリー”とは、ざっくり言うと、チフス菌と仲が良かったために、人々とあまり仲が良くなかった人のことである。

具体的にどういうことかと言うと、このメアリー・マローンという人は、チフス菌の健康保菌者、つまりチフス菌が体内にいながらチフスを発症しない体質(?)の人だった。

こう聞くと、ジャンプ漫画にありがちな「毒が効かない」超人みがあって、ちょっとカッコイイ(ゴムゴムの例の人とか、シルバ=ゾルディックとか)。しかしながら、メアリーは一市民であって、そういう小悪党の類いではなかった。

この人は、20世紀初頭に住み込みの料理人としてニューヨークの家々を渡り歩いていたという。ところで、普通の人は、チフスに罹る。つまり、メアリーが自慢の料理で腕を振るうと何が起こるかというと、食中毒が起こる。そして実際に食中毒が起こった。こうして、「チフスのメアリー」が発見された。

料理が好きだったのか、ただ得意だったのかは知らない。ただ、メアリーが料理人をするのは、市民にとってみれば実質的に彼女が小悪党に与するのと大差ないことだった。ということで、シンプルにメアリーを野放しにしておくとヤバいので、彼女は離島の病院に隔離された。彼女には「胆嚢を切除する」という選択肢もあったが、これは本人が拒否したのだという。自由と胆嚢を天秤に掛けて、胆嚢を選んだのだ。

でも、これはちょっと不憫だ。3年の隔離生活の後、世論の後押しもあり、「今後一切料理はしない」という誓いを立てて、メアリーは病院生活から解放されることができた。ここまでは「不運な市民」の筋書きとなっている。

ところが。メアリーはこの5年後、自作のアイスクリームで再び市民をチフスの恐怖に陥れた。しかもその時、保健所の検診をかわすために、偽名を使って行方をくらましていたという。そう、反省していなかったのだ。もしかすると、自分のそういう体質を本気で信じていなかったのかも知れない。あるいは、メアリーは、天性の料理人だったという見方もできる。いずれにせよ、今度は世論も味方せず、メアリーは再び病院送りとなり、死ぬまでそこを出ることはなかった。

しかし驚くべき事に、メアリーはこれに懲りるどころか、病院内で自作クッキーや自作ケーキを販売して副収入を得ていたりしたという。先ほど天性の料理人などと言ったのは皮肉だったが、案外本当なのかもしれない。それより、自分のメシで死人まで出して、一度は世間を敵に回しておきながら、なおもそのようなことができる根性は寧ろ見上げたものだ。メアリーがガチンコ超合金メンタルに生まれたことは、ニューヨーカーにとっては非常な災いだったが、本人にとっては幸いであった。

名古屋大学は、「チフスのメアリー」を笑い飛ばすことができない。大学に凄絶な禍根とトラウマを残した「毒クレープ事件」を脳裏によぎらせて身震いを起こすだろう。あるサイトに詳しい当事件は、間接的に旧・情報文化学部を葬り去ったり、名大を名乗るあらゆる部活・サークルを活動自粛に追い込むなど、食中毒自体の被害というよりその余波がエグかった。メアリーがもう100年後の、この何に付けても神経質な時代に生を享けていたら、そのガチンコメンタルが真に試されることになっただろう。

 

ところで、Wikiによれば「エイズ・メアリー」という、「チフスのメアリー」のスピンオフ的な都市伝説が存在する。それは以下のような内容であるらしい。

観光などである国を訪れ男性が行きずりの現地女性と一夜を共にする。翌朝起きてみると女性はいなくなっていた。身づくろいをしようと洗面台に向かうとエイズの世界にようこそ (Welcome to the world of AIDS) 」と大きく口紅で書かれている。

メアリーはこんなに性悪ではない。別にメアリーは、レストランで食事を済ませた客に「チフスの世界へようこそ」と書かれた領収書を渡したわけではない。(1876字)

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