日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(12):語彙の天井について

漱石も読まない文学部があるかと、半年ほど前に小説「道草」を購入したのだが、半分くらい読んでそれっきりになっている。そこで何かに気づいて、急いで大学に問い合わせたところ、実は私が合格していたのは名古屋大学文学部ではなく、入試偏差値37.5の同大学『文字部』であることが発覚した。それ以来、私は絵本シリーズ「のんたん」本文より難しいあらゆる日本語の文章が一切理解できなくなった。今はカタカナの習得に励んでいる。

「道草」を(半分まで)読んでまず思ったのが、「漱石語彙ヤバい」である。

 

・・・着想を紙に落とさぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自ずから心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季混濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の羈絆を掃蕩するの点において、ーー千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。・・・

 

書くのが楽しくて楽しくて仕方ない漱石の絵が見える。「のんたん」の読後に見ると中国人テロリストから送られてきた脅迫状にしか見えない。

 

 漱石がスゴいのは、ハンパない漢詩の素養でブーストされたエイリアン・ボキャブラリーもそうだが、何よりそれを自在に操っているところこそ真にスゴい。

難しい言葉を知るだけなら、それこそ図書館から「夏目漱石全集」を引っ張ってきて、「璆鏘の音」とか「不同不二の乾坤」とかいう意味不明な単語を片っ端からメモしていけばいいだけの話である。

知ってはいるけど使えない語彙は、喩えるなら仮免である。本免で初めて意味がある。会話中や文中での使われ方から学んだり、実際に使ってみたりすることで、言葉の概念が具体的なシチュエーションにリンクする。いつか同じ事を書いた気がするが、やはり言葉は使わないと使えるようにならないと思うのである。私が「僭越」という言葉を覚えてから、実際に使うようになるまで1年ぐらいあった覚えがある。

そのようなので、日々の中で、ある程度意識的に「言い難きを言」おうとすることが、漱石への第一歩と言える。それはボキャブラリーの試練とも言える。言い難きを言おうとして、「確か何か、このシチュエーションをうまく言い表せる言葉があった気がするんだけどな・・・」と思い悩んでいるとき、そこにまさに「語彙の天井」がある。

「なんかあのさりげない肩出しのワンピースの女性をうまく形容する、フランス語っぽい言葉が・・・」「なんか今いきなり話かけられて全然うまく受け答え出来なかったけど、こういう喋りの感じを指す擬音語みたいな言葉が・・・」「いけ好かなかった陽キャが受験全落ちしてていい気味だけど、こういう気持ちを指すドイツ語かなんかの言葉が・・・」

・・・といったように、ここで「そう、コケティッシュだ!」「あ、し、しd、しどろもどろだ」「シャーデンフロイデか!」と思い出し、納得してしまいさえすれば、その語彙はもういつでも発射できる、拳銃の弾倉に収まった弾丸も同然である。

 

余談ながら、 私にボキャブラリー革命が起ったのは、たしか中1のときになんでか買った高橋貞樹被差別部落一千年史」を読んだときだった。昭和初期の典型的なカッチカチの文語チックな文章で書いてあるのだが、当時の私は高橋さんが怒気混じりに熱弁するその気迫を感じ取るので精一杯だった。

ただあくまで、意味を伝えるための言葉である。急に漱石が「なんか胸裏に璆鏘の音起るんだけど」などと私に話しかけてきたら、きっとし、しd、しどろもどろしてしまう。ある程度を超えたら、ボキャブラリー青天井計画、漱石作戦はただの自己満足に過ぎなくなる。しかし、璆鏘の音の何たるかを知り、その故に(栄をほっつけ歩いているギャル男には聞こえない)璆鏘の音を聴くことができる人生は、そうでない人生より、きっと僅かに豊かな気がするのである。(1693字)

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漱石