日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(13):飲むヨーグルトについて

名古屋ではあまり知名度を獲得できていないようだが、株式会社のみもの。は都内を中心に「カレーは飲み物。」をはじめ「とんかつは飲み物。」「ハンバーグは飲み物。」など複数のレストランを経営している。これら奇抜な店名の主張するところはあくまで首都圏の文化なので、誤って矢場とんでとんかつを”飲も”うとすれば、直ちに金城ふ頭に連行されて伊勢湾に沈められると思った方がいい。

ご存知ない方々にあらかじめ断っておくと、これらのレストランのコンセプトは、衰えて咀嚼・嚥下が十分に出来ないご老人方に元気を取り戻してもらうため、あるいは櫻井翔のような多忙を極める人々の「10秒チャージ」の満足度向上のため、店名にある高タンパクメシ味の流動食を提供することではない。「飲み物」は比喩である。

 

一方、「飲むヨーグルト」と言うとき、明治は真顔でそう言っているし、実際我々も言われるがままにそれらを飲んでいる。ところで、「飲む」などと言っているからには、やはり飲まないといけないのであろうか。

明治は、趣味の悪い金持ちか頭の悪い動画投稿者が浴槽にためた「飲むヨーグルト」に浸かる、すなわち「浴びるヨーグルト」を実践することを許すであろうか。あるいは、非常に情緒が不安定な人が不適切な”啓示”により「飲むヨーグルト」を至上の物質と悟ってしまい、それによって「崇めるヨーグルト」を実践することは、明治的にはどうなのであろうか。他にも、塗ったり、撒いたり、注射したりしてもいけないのだろうか。

というか、「飲むヨーグルト」とは要するに「飲めるヨーグルト」なのではないか。その方が表現として正確なのではないか。「飲むことが可能」ぐらいのユルい表現なら、私のような怪しいブロガーに難癖をつけられることも無かったのではないか。

しかし、「飲めるヨーグルト」と言われると、「基本的には普通のヨーグルトのように食べるが、飲むこともできるヨーグルト」のように解釈されかねない(それは中央製乳の「どうまいヨーグルト」などのことである)。

つまりここで、「食べる」と「飲む」の境界が問題になるが、「食べる」と「飲む」を厳密に分かつことは、おそらくできない。咀嚼の要不要とか、水分量とか粘度とかによって定義することのバカらしさといったらない。

そのように考えていくと、「食べ物/飲み物だから食べる/飲む」のではなく、「食べる/飲むから食べ物/飲み物」である、という説が(言葉の意味からしても)いかにも妥当に思われる。それに加えて、「食べる/飲むのが一般的なものは基本的に食べ物/飲み物である」という”慣性の法則”も存在するように思われる(このとき、鉄筋コンクリート建築が一般的となった今でも「床」とか「柱」という漢字に「木」が用いられているように、必ずしも実情にそぐうとは限らない)。

それを踏まえるとどうなるのかというと、いかにも飲み物を入れる容器に入れられ、ストローを添えて提供されるヨーグルトは、その時点で既に飲み物なのである。そして既に飲み物なので、そのヨーグルトを「食べる」ことはできない。そこに「飲めるヨーグルト」の存在できる余地はない。

さらに言えば、「飲まれるヨーグルト」が我々の呼ぶところの「飲むヨーグルト」である。しかし、純粋にヨーグルトだけで存在しているとき(この状態を「理想ヨーグルト」と呼ぶ)、それは食べ物か飲み物かのどちらかではなく、どちらにもなりうる可能態的な存在であるからして、我々の能動的な「飲む」という行為は文字通り「決定的」なアクションであり、その重大さにアクセントを施すという意味で「飲むヨーグルト」というのは非常に要領を得たネーミングである。飲むヨーグルトは、こんなにも実存的な食品だった。

この理屈は敷衍することができる。我々が乗ってはじめて乗り物である。我々が練ってはじめて練り物である。我々が履いてはじめて履き物である。

そして、我々は生きている限りで生き物である。時を過ごしている限りで我々は生きる。時が過ぎる間、我々は生きてさえいない。(1659字)

 

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