日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(16):信じたくない事態について

私の通った高校では、朝礼から終礼の間、生徒は携帯の電源を切ることが義務づけられていた。

しかし、高1のとき、数学の時間に教室で携帯が鳴ったことがある...鳴るはずのない。

 

教室の空気が凍ったのは言うまでもない。なにせまだ私たちは高1で、”前例”に乏しかった。空気感が「授業」のそれから、携帯の無神経にのんきな通知音を蝶番として、瞬時に「処刑」のそれに切り替わった。

先生がおもむろに口を開く。「誰だァ...」

 

私は、音が鳴ったとき、それが私の左前の席あたりからしたような気がしていた。しかし、尋問が始まるにつれて、「ひょっとしてさっき鳴ったのは私の携帯では...?」という疑念と恐怖が募ってきた。私は机の左側にリュックを引っかけていたし、音の近さからしても、私のリュックの中の携帯が鳴った可能性は十分に高かった。...ということに、次第に気づいたのである。

先生の怒りは増加関数、しかも等比級数的に増幅していっていた。しかしそれでも、私は名乗り出なかった。それは、名乗り出るリスクを引き受けるほど確証を得ていない、と勝手に判断してのことだった。

そこで痺れを切らした先生が、「各自携帯出して確認しろ」的なことを言った覚えがある。ここで急に記憶がおぼろげになるのは人間の脳の妙なのだが、私は確か、携帯を取り出したが、何もせずリュックに戻した。

なぜなら、電源ボタンを押して、もしちゃんと電源が落ちていたのにそれで携帯が起動してしまったとき、もはや言い逃れは不可能になるというリスク、そして仮にも電源が落ちていなかったとき、「どうも鳴ったのは私の携帯らしい」ということになるが、「電源が落ちていなかっただけで鳴ったのがこの携帯であるとは必ずしも言えない」という、最後の最後の可能性、そう、”可能性”が残っていたからである。

とうとう、先生の怒りが無限大に発散した。先生は口から波動キャノン(8000Pダメージ)を放ち、職員室へ帰ってしまった。

 

結局、私の携帯の電源は切れていなかった。なので、クラスの面前で泣く泣く自白をした後、先生を呼びに職員室まで走った。

 

しかし、膨れ上がる「そうだった場合のリスク」を脇目に、萎んでいく「そうでない可能性」にすがりついてしまう現象というのは、確かにある。さっきの場合では、鳴ってしまった携帯も、信念の力によって鳴らなかったことにできる気がしてしまうのである。

例えば、こういうシチュエーションを想像してみてほしい。偉い人に伝達事項を正しく伝えたか自信がなくなってきたとき。それが集合場所や集合時間の類いで、もうその偉い人が準備ないし移動をはじめてしまっていた場合。もし誤って伝えていた場合、今更連絡しても正しい集合場所に正しい集合時間には間に合わない場合。

例えば、広い更地の上で、火力が制御できなくなった気球に乗ってしまったとする。このとき、骨の数本はくれてやるという意気で飛び降りるべきなのか、不具合が解消すると信じて気球に居続けるべきなのか。もし飛び降りるなら、(一方で不具合の解消する可能性を十分に信じることができる)早い段階で飛び降りるべきである。しかし、飛び降りる際に縁に足を引っかけて姿勢を崩し、不幸にも落命してしまうということもあると私は以前の記事で書いた。

 

改めて事の顛末を見返してみると、なんとなくマーフィーの法則を思い当たる。その意味するところは、「If anything can go wrong, it will.」と表現される。

リスクを引き受けるとは、すなわち「ほとんど最悪の場合へ想定を切り替える」ことであり、「既にリスクとして懸念しているところの害は発生している」という理解に立つことである。箱の中のネコは既に死んでいると考えることである。

しかし、場数、つまり経験を積んでいない人にとって、それは口で言うほど易しいことではない。なぜなら、私たちはそれをしないことによって「普通に」暮らしているからである。

 

「信じない」ことによって、迫り来る未曾有のダメージから逃れようとするのは、ある種の自己防衛である。それを咎められるのは、不本意な気がする。仮にあそこで「信じられないことが起こったので、信じないでいてみた」と私が主張したとき、T先生には「残念ながら、現実だったな」と、なだめるような調子で返事してほしかった。(1775字)

 

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