日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(22):大学の勉強について

大学生活が再始動し、先月までゴミクズフリーターだった私もようやく自分が大学生だと思えるようになってきた。その大学生としての自意識が昂じる過程で、自分が何しに大学に来てるのか、これから大学で何をすべきなのかしばしば考えるようになった。未だ考え尽くせてはいないが、とりあえず現時点での自分の見地見解をメモ的にまとめておこうと思う。だから、以下は自語り多めのメモである。

 

 

大多数の人々と同じように、大学入学を決めた明確な動機はない。強いて言えば周囲も大学進学するという方向性で一致していたから、というところまで同じである。ただそれ、すなわち付和雷同的な進路選択は、際だった才能・技術や志、または明らかで信頼できる将来のビジョン・人生設計のない私をはじめとする多くの人にとって、「人生の選択を保留にする」「より多くの選択肢を検討する」「自身が主として関係する社会集団内の多数派に属する」という意味をもつ点において妥当な判断だったと考えてまず間違いない。

 

このように、私は何かをしに大学に進学したのではない。何かしらをしに大学に進学したのである(この文のみでは意味は通じないが、前段落と合わせると文意が通じると信じる)。

大学では何をしてもよいが、まず大学が勉強をするのに非常に適した場所であることは自明である。また多くの人にとって、労働をはじめとする些事・忙事に優先して勉強することができる最後の時間となるのは、大学生として過ごす数年である。ではその勉強という代物に、労働ほかに優先させて行うだけのどんな価値があり、そこに何を期待できるのかを考える必要がある。

勉強がこれまで大切だったことはいうまでもない。日本は基本的に勉強をすると良い学校に進学できるシステムになっている。勉強して知識を得、それを示すことが彼の能力の指標として機能しているからだ。良い学校へ進学すると、良い学友、良い機会に恵まれる。少なくともこの事実だけで、勉強に励むに足る。それをしない、それに気づかない人々と距離をおけるというのも一つの利点である。ただ、その側面を強調するのであれば、大学入学後に勉強の重要度は大きく下がるだろう(資格試験、採用試験の勉強を除いて)。

勉強それ自体が我々に何か利するとすれば、知見・知識・語彙が増えることで、より多くのことのより多くの面について考えることができるようになることだろう。我々は、残る人生の時間の半分以上は何かを考えて過ごすに違いない。また、考えられないことは、我々各人が生きる世界において存在しない(「考えられないことを考えることはできない」)。多くのことを深く考えられるということは、それだけ彼の生きる世界に「広がる余地」を与える。また、日々を色々に解釈できるようになれば、それだけ人生の彩度も上がるだろう。浅薄な知識・学識しか持っていないことで狭く低次元な世界に生きる人がその場しのぎのつまらない娯楽を切らした日には、人生の無機質な表面をただ見つめることしかできず、ちゃちな悲観主義や浅はかな刹那主義を奉じるなどして、人生の時間切れを待つ木偶になる。

 

私はとりあえず「勉強は基本的にした方がいい」と感じた。ただ、勉強なら何でもいいということはないように思う。

時間と我々のキャパには限りがあるので、有益・有意義な勉強を優先的にするのは賢明だと思う。有益・有意義とは、普遍的・基礎的であったり、応用の可能性に富んでいることをここでは指している。実用的であることも並んで大事だと考えるが、その理由は後述する。

まず、哲学は疑いなく取り組むに値する。個人的には、哲学に収斂しない学問は「技術」でないならエセ学問であると思っている。

語学も非常に良い。我々は思考に際して言葉を用いる。言語の獲得、言語への反省は思考に少なからず影響すると思うのである。最近はあまり顧みられないようだが、サピア=ウォーフ仮説を聞けばなおそう思う。また、今昔東西の思想家(特にハイデガー)が独自の珍奇な用語をアレコレ作り出してきた歴史を見よ。もちろん1つの外国語が読めるようになる実用的メリットも大きい。

数学はどうだろうか。分野にもよるが、普遍性と応用可能性は非常に高い。一般性や厳密性、論理的な理論構築は非常に魅力的ではないか。

 

では一方で、私が好意的に思わないのはどのような類いの勉強かというと、百科事典的・「オタク」的な知識を目指す勉強、特殊・個別的で狭い知の領域に固執する学問(体感的に、抽象性の低い対象を扱う学問はこの傾向がある)の勉強などである。

以前は、工学に強い抵抗感があった。理由は、それが実用に特化した学問であると聞いたからである。しかし最近は思い直している。「もの作り」に携わる学問分野は、十分取り組むに値すると感じるようになった。

もの作り、または芸術活動を行う技術・知があるというのは幸せなことではないか。それに次いで、それらを解する知を有していることも幸せなことだ。どちらの幸せも享受できない人間なんか、「頭数」ではないか。

同時に、それが将来的に専門的な職業で全面的に活きること、つまり狭い意味での「実用」への抵抗もなくなった。学問知を活かすことの出来る職は、そうでない職より遙かに魅力的だと感じるようになったからだ。学問知とはある程度普遍性を有した知の体系であって、それをさほど要しない職に就いたとて、浅い組織論・処世術・ビジネスマナー以上の何かを勉強できる期待ができないからである。一体それを何年やるんだという話。

 

 

最後に、語学においてどの外国語を勉強すべきかについての私見をまとめてみる。

好きだから、ないし使うために学ぶのであれば何も言うことはない。

まず我々は日本語のネイティブである。だから、漢字が分かる。これはとんでもないアドだ。実用最低限レベルまで学習するのに手厚い指導のもと標準6年ほどかかる漢字を高いレベルで習得している、と言い換えたらそれが分かるだろうか。漢字ほど高度な非・表音文字というのは過去あったためしがないと思うが、それを当然のように教わることの出来る国に生まれたことは非常な幸運であった。

だから、欧米圏の人々より中国語の習得は遙かに容易いはずだ。ビジネスシーンでは基本英語だと思うので実用に向くのかは分からないが、アドを活かそうと思うなら中国語は賢明である。

ところで第3外国語を学ぶとき、第2外国語と系統的に近い言語を学ぶのは損だと、私は常々主張している。

例えば、アラビア語はドイツ語とルーツも文字体系も全く異にする言語である一方、オランダ語とドイツ語は非常に似通った言語と言われる。ドイツ語を第2外国語で学んでいた場合、第3外国語にオランダ語ではなくアラビア語を選んだ方が、難しい分多くのものを学べるはずである。

語彙が若干違うとか、活用・格変化が微妙に違うとかいう割合些末な違いしかない2言語を両方やるというなら、それは「オタク的な」知識の域を出ないように思う。語彙を入れる作業はそう易しくない。どうせ使わない上に言語学的にも新たな知見を得られないとしたら、それは時間とキャパの無駄と言わざるを得ない(一応書いておくが、例えば江戸期のオランダと日本のインターアクションについて知りたいというような動機でオランダ語を勉強するドイツ語を第2外国語で勉強した人にはそのようなことは言わない)。

 

 

これまで「自己陶冶のため勉強」のスタンスで文章を書いてきたが、結局モチベーションのコアは興味であるべきなのだろうと思う。寧ろ、何かしらのことに興味を抱けない人間には、自己陶冶の機会が与えられないばかりか、自己陶冶に励む資格もないのだろう。