日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(23):政治について

政治の話が嫌いである。というか、”実際的なこと”全般が嫌いである。

政治について語るということが既に最も広い意味で政治に参加することだと思うが、ひとたび語ってしまったら、語り尽くさねばならなくなる。政治について断片的に、ないしなまじっか語ることは、語らないことより悪いことだと思う。なぜなら、政治とは徹頭徹尾実際的な事柄を問題にするからである。

しかし、政治的トピックのそのような性質にも関わらず、ある政治的な問題の諸相を把握しきることはほとんど不可能に等しいのである。というのは、その無限に広い裾野に加え、重要な問題の中央部、核とおぼしき地点は多くの場合に存在しない。それに、各々の問題は究極的には互いに完全に特殊で個別的である。それらにおいて、現実に存在する具体的な問題の当事者が問題の裁量権を専ら有しており、結局のところ第三者がそれについて思惟を巡らせることの意義は、当事者のほんの一挙措にさえ及ばない。本当にその問題をシリアスに受け止めるなら、そのリアリティを探り当てる、即ち干渉さえ厭わない意気でいるべきだと思うのである。

以上のようなので、自身を政治に巻き込むことは非常にエネルギーの要ることである。そしてその源は怒りだと思う。しかし、多くの政治的な問題は”仕方なく”そのような事実のままで存在しており、さもなくば問題として立ち現われることさえないことを思うと、私としては怒る気も萎えてしまう。私は、人々の知性や問題解決能力を安易に見くびるような愚かさは努めてかなぐり捨てたいと思う(その類いの驕りは、自覚的にならなければ必ずふとした拍子に表出してしまうものである)。

「如上の理由から、私は政治については知らん顔を貫く」と言いたいのであるが、語らないという意思表明が必ずしも知らないでいることを許すわけではない。寧ろ、語らないために知らなければならないということだってある。何が人々へ災いし、人々が何に怒っているかは少なくとも知っている必要がある。その上で、それについて判断を停止する根拠となる程度には、そのバックグラウンドを透視しなければならない。きっとそのあたりに込み入った事情があるに違いないと思える溝の手前までは、辿り着かなければならない。と、最近そのように思うようになった。

それに、意外と何も語らないというのは難しい。ニュース類の分かりやすい字面につられて、ついつい浅い感想をペラペラ述べたくなってしまう。それさえも厳しく戒めることに大した意味はないと思うが、一定の線引きはしたいと思う。

また、もし誰かが、「その政治への消極的な態度が政治を悪い方向へ導くのだ」と私に言ってきたら、私は「仕方ない」と返すより、仕方ない。私にこのような信念を抱かせるほど複雑で不明瞭に発達した機構・制度・システムが制御不能に陥ったということならただ納得である。あるいは、もし私が人々に期待している程度の良心や知性でさえ過大であったなら、それは私は折れるしかない。逆に、「無差別に人を殺傷するのが疑いようもなく明らかに唯一正しい」ということなら、人生がある程度落ち着いたところで、学校や電車など人が集まるところでガソリンと小麦粉をぶちまけて火を放ち、心中ぐらいするかもしれない。何か物騒なことを書いたが、あくまでいまの条件は「太陽が西から昇っても」と同義ぐらいに思って読んでもらいたい。