日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(24):自転車のセキュリティについて

 ザンギリ頭をボコボコ殴っているうちに、気づくと21世紀になっていた。人々は依然さまざまな悪習陋習に縛られているが、そんな世の中では今や、駐輪の際に自転車に鍵をかけるのが常識となってしまった。

私はそんなことしたくない。というか、なんでそんなことしなければならないのか。いや、なんで私が、そんなことをしないといけないのか。

 

それは決まっている。誰かが私の自転車を盗むからである。

 

てんでおかしい。考えてみれば、自転車を盗む人が絶対的、一方的に悪ではないか。我々に、このような面倒を引き受けなければならなくなるどんな非があるというのか。そしてそれでも、それにも関わらず、世間一般のparkerたちはなぜのうのうと自分の自転車に鍵が出来るのか?

私は一度、知り合いの”常識人”に、その思うところを問いただしたことがある。するとその人はかくのたまいき。

「鍵したくないなら、そうすれば?盗られても知らないけど。」

 

私はこのとき、眼前の憎たらしい面にやり返すことが出来なかった。私は自転車配りおじさんではない。前沢勇作メンタルではない。寧ろ、自分の自転車にはかなり愛着をもっている。自転車のことをただの移動手段としかか思っていない人の形をしたゴミクズにやすやすと愛車を明け渡すほど、私は寛大ではない。だからこそ、「自転車を盗む方も悪いが、防犯を怠った方も悪い」という論調が、憤ろしくて仕方ないのである。

実際2年ほど前に、3~4年乗っていたクロスを大学の図書館でパクられたことがある。無論(?)鍵はしていなかった。日々是タイムトライアルだった高校通学の相棒を失った怒りに震えたことは言うまでもない。そしてやはり、私に非があったとは微塵も思わない。

 

だが人々は、盗難の件と相似をなすように思われるいじめの問題については、全くその所論を翻すことが度々ではないのである。

私は、いじめに関しても(いじめに関しては、全てのケースが特殊に考えられるべきであるとは思うが)、いじめる側が絶対的、一方的に悪いと考えている。個人の好悪の問題を離れて、手段としてそのようなスタンスをとるべきだと考えるからである。

何への手段かというと、これは自明にいじめをなくすことである。いじめに加担することや、いじめを黙認することは、まず集団において負の影響をしか与えない。とりわけ有害なのは、さらなるいじめにのさばる余地を与えることである。つまり、いじめを絶対悪と見做さなければ、いじめは必ず起こる。極端な例を挙げれば、「汝殺す勿れ」の玉条は、他でもない殺されることを望まない人々によって奉じられてきた。殺されるリスクを下げるために、まず自分が殺さないのである。

 

ここからが本論である。直前の社会契約説的な発想は社会の随所に倫理として張り巡らされているが、自転車盗難もなんらその例外ではない。盗まれないために、まず自分が盗まない。しかし、それと軌を一にして、次のこともまた為されるべきだと考える。

それはすなわち、盗まれないために、人々に盗むことを期待しない、である。

「人々は盗みうる」と考える時点で、盗みにその為される余地を与えているのである。人々に含まれるところの”あなた”に対して「あなたは盗みうる」と告げることは、さながら「あなたは盗むこともできる」という悪魔の耳打ちでもあるのである。

 

では、そもそも「人々に盗むことを期待する」とはどういうことか?

ズバリ答えよう。それは「自転車に鍵をかけることである」、と!

自転車を盗む人がいなければ、もっと言えば”あなた”が自転車を盗む可能性がなければ、そもそも自転車に鍵をする必要は無い。自転車に鍵をするということは、その逆で「あなたは盗みうる」と私を睨むことなのである。

加えて、「あなたは盗みうる」と主張する鍵のかけられた自転車の傍らに、鍵のかけられていない自転車が置かれると、どうなるか。「あなたは盗みうる。一方、この自転車は盗みに対して無力だ。なので、この自転車はあなたに盗まれても仕方がない」と、相対的にそう受け取られてしまうのである。つまり、前者(車)の方が、主張として強いのだ。

この意味で、自転車に鍵をするという行為は有害なのである。

 

私がこう言うと、"常識人"の方にはおそらくこう返されるだろう。「人々は盗みうるというが、盗人は現にいるのだ」、と。

ここが問題の肝だろう。しかし、私はオプティミズムを曲げない。その主張は正確ではなく、「盗人はいた」というのが真だ。最後に盗人が発見されてより後、全ての人々にはイノセンスを期待すべきだ。

今度は、先ほどの「期待しないことでなからしめる」理論とは少し違う。「人のものを盗んではならない」というルールは、既に常識なのである。万人にあまねく共有されていなければならない。常識を、ゆめ疑ってはならない...常識が常識であるために。「疑いを差し挟む余地がない」ことこそ、常識の条件なのである。それは、「期待することであらしめる」理論と言えるだろう。

エジソンが偉い人であることなど常識ではない(少なくともここで用いる意味においては)。"常"識とはもっとラディカルだ。それを共有しない他人との交際が困難であるようなものが常識である。モラルや規範意識という言葉では、その「"常"なるべき」という性質にフォーカスできていない。

 

ただここまで言っておいて何だが、非常に残念なことに、モラルのない人というのは確かにいるらしいのである。ということは、人間がモラルを身につけずに育ってしまう環境、モラルを獲得できない性格、モラルを捨てざるを得ないシチュエーションというのが、世間には存在するということも確かなのだろう。

本心としては「人のことを思いやれない人間に、人に思いやられる資格などない」と思うのだが、こう言ってインモラルな人を排除してしまってはこちらも過ってしまう。というよりそもそも、常識を常識として維持しようとする努力は、ややもすればモラルを見失ってしまうこのような人々のために為されているようなものなのである。たやすく過ってしまう彼らの前に、自転車をノーロックで、しかも何食わぬ顔で駐輪することは、「ここにモラルが存在する」という宣言であるし、彼らにモラルに参加するチャンスを与えることでもある。

 

盗難をしないことでなからしめる。モラルを期待することであらしめる。そして、盗難を期待しないことでなからしめる。

あれこれ書いたが結局、とんだ妄言だと思われたかもしれない。しかし明らかに、この世間、その空気を悪い方向に導いているのは「不信」なのである。そして、その根底には執着とエゴイズムがある。

 

言わせてもらうが、たかだか自転車の1台が何だというのか。たかだかスマホの1台、たかだか財布の1つが何だというのか...人を信じないことに比べたら。

しかし、「何でもない」のその一言が、言えない。これは囚人のジレンマである。己の持ち物をことごとく錠に繋いで監視していないと気が済まない我々自身が檻に繋がれていることに、少なくとも”常識”ある皆さんは、努めて自覚的にならなければならない。