日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

「名古屋大学 文化学部」についてのメモ

現状字面のみで存在し、未だ一切実体のない「名古屋大学・文化学部」というアイデアは、この時点では私以外の誰にも解釈されてはならないので、ここに暫定の骨子や理念をメモ程度の意味合いとして書いてみる。

 

 ①「文化」という言葉自体には何の意味も込められていない

この穏やかならぬ(未然の)アイデアは、既存の学生文化へのアンチテーゼとして、ないしいわゆるカウンターカルチャーとして、または純粋に文化的たろうとして「真の文化」を僭称するものでなければ、そもそも発想時点では(いわゆる)「文化」にまつわる何者とも関連づけられていない。

「『情報文化学部』から脱落した『文化』の部分」という以上の含意はなく、さらに言えば情報文化学部、情報学部ともなんら関わりはない。

 

 ②妬んだり、僻んだり、嘲ったりが目的ではない

意味は以上のようだが、その意図はすなわち「名大にもはや不要となった人間の集まり」である。どういう人がこれに該当するのか、厳密に言うのは難しい。しかし少なくとも、何らかの”秩序”から漏れそこへの復帰を困難に思う人、自身に向けられる「名大生」という言葉に底知れぬ空しさを感じ取る人、常識から脱落したが非常識にも振り切れず、もはやいかに身を処すべきか分からなくなった人、こういう人は自明に該当するように思う。

落伍者でありながら、そしてそうと自ら認めながら、そういう在り方を肯定できない人を名大につなぎとめる最終手段にして最後の砦を、この「文化学部」としたい。

そのようであるので、「秩序への復帰」は違う。「ヴィラン的な自己陶酔」でもない。「弱者の怨恨」は、近くないが遠くない。寧ろ「自身を呪う」というならそうである。

 

 ③ユーモアを足がかりとする

活動内容はいくつか漠然と考えているが、その指針は以下のようである。

まず、無用・不要であること。しかし、それは必ずしも無意味であるということではない。少なくとも「不要なものが図々しくも存在している」というエキシビションとしての意味はある。

ここで、「図々しさ」は1つの肝である。そこから、活動に際してはパロディーを重んじたい。この方法が最も図々しく、気色悪く自己主張できるからである。無論それは「侮辱的な模倣」と紙一重なので、細心の注意をもってせねばならない。そこで重要になってくるのが、ユーモアである。

性質上誰もお呼びでないこの集まりが存続するための”とりつく島”となるのが、まさにユーモアである。ユーモアぐらい、「不要なのに求められるもの」はない。図々しい変態、ふてぶてしいエイリアン、やかましい外野、この類いのものを貫徹する潜在的なユーモアが、この集まりの唯一の活路なのである。またその意味で図々しさとは、ある意味で「道化に徹する」ことなのである。「外道に振り切る」と言ってもいい。

 

 

ざっくり言うと、「文化学部」とは「大学生活に挫折した人が穏やかに発狂できる場所」といった感じになるだろう。「風狂志向』を実行するためのプラットフォーム」とも言える。

もはやこの「文化学部」で私自身が発狂することでしか、これまでそしてこれからの大学生活を”清算”することはできない。この期に及んで言い訳がましいが、こう留年したり諸々をしくじるのは私が私である以上避けられないことだったのであり、寧ろその落とし前を付けられるかどうかにおいて私の真価が問われるような気がしている。