日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(31):自転車のセキュリティについて再論と補足

 

89315656.hatenablog.com

 

「『姦淫するなかれ』と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」

 

そこで俺は敢えて言おう、俺の自転車を盗ろうか盗るまいか悩んでる時点で、それはもう盗ったも同然だと言うことをな!!

 

 

上の叫びは、以降の文章と特につながりはない。

以下に前回の論旨をまとめる。

人々は、自分の自転車が盗まれないために、自転車を盗むべきではない。それと同じように、人々に自転車を盗むことを期待するべきではない。自転車を盗むことを期待するとは、人々が自転車を盗みうると考えることであり、「自転車を盗む」という選択肢を認める行為である。自転車に鍵をするということは、まさに人々に懐疑のまなざしを向けることに他ならない。よって自転車に鍵をするべきではない。

鍵がされた自転車は、自転車は盗まれうると主張する。その近辺に鍵のされていない自転車があると、「盗まれうるにも関わらず盗みに無力な状態で駐められているということは、持ち主はこの自転車が盗まれてもいいと考えている」と受け取られかねない。この点で施錠は有害である。

「盗んではいけない」というルールは、極めてラディカルな常識であり、そう認識されるべきである。自転車に鍵をするとは、このルールが侵されている状態を想定することであり、それは実際に盗むことと同様にこのルールの厳粛さを損ねるものである。

それに、「盗みたくても盗めない」状態は、モラルな状態ではない。ものを盗みうる危うい倫理意識の人間が、ノーロックの自転車の前で「盗まない」という選択を行う状態こそ、モラルな状態である。

 

 

一見ペラペラな表題とは裏腹に、意外と盛りだくさんな感じだった。しかしやはりどうも現実とかみ合っていない感じが強く、記事公開から2ヶ月の間度々思い出しては、悶々と悩んでいた。

この前、青土社の雑誌『現代思想』の反出生主義を取り扱ったバックナンバーがあったので、なんとなくめくったりしていたのだが、私はてっきりこの手の論者は道すがら妊婦の腹めがけて飛び膝蹴りしたりする外道な輩だと思っていたのに、実際は想像以上に”理論”な感じで語る人々だったので、少しシラケてしまった。

この反施錠主義(笑)は、たといその発端は理屈であっても、結局のところでアクチュアルな主張でありたい。「まあ、鍵するんですけどね(笑)」とは、意地でも言いたくない。なぜなら俺は、人々が「鍵をするというすこぶる情けない行為をムダに毎日毎日繰り返すこと」を何とも思わず、そしてそれをやすやすと受け入れていることに、少なからずキレているからだ!

 

私が最も現実からの乖離を感じているところは、「もし鍵のしていない自転車しか駐まっていない駐輪場があっても、結局モラルのない人は『チャリ盗り放題やん(笑)』と考えるに違いない」というところである。私の声が届かない人々に対していくら声を張り上げても、仕方がない。となると、(個人的にはこの連中は殺したほうがいいと思っているが)施錠に代わるなんらかのアディショナルな実践は必要不可欠であるだろう。

私の理想に従うならば、その実践はあからさまに防犯を意識したものであってはならない。なので、「盗るな!」「カメラ作動中!」の類いの張り紙、あるいはカメラなどは、私の忌むところである。それを踏まえて、2つの方途を思い当たった。

 

1つは、駐輪場の壁に「顔」を書くことである。なんなら彫っても良い。なんかで読んだのだが、たしか”募金箱みたいなヤツにお金入れて、セルフサービスでコーヒーを淹れる”みたいなシステムのお店で、テーブルに「人の目の絵・写真」が貼ってあるのとないのとでは、前者の場合の方が料金を踏み倒す人が少なかったらしい。そういう心理的な効果がとりあえず期待される。それもそうであるし、また駐輪場ごとに異なる顔を用意して、「駐輪場の主」「守護神」のように扱うといいと思う。

駐輪場は全国津々浦々に存在するが、それらの多くは”まさに盗難のリスクが発生している現場”というような、どこか緊張感の漂う”神なき”場所であるように思う。特に施錠された自転車が立ち並び、防犯カメラが物々しく見下げる駐輪場において、人々は互いに信頼することなく、錠前でするように心を閉ざす。この地獄にこそ”神”に、来臨賜りたいのである。

だがこの期待は、残念だがおそらく成就しないだろう。盗みにも程度があると思うのだが、私は賽銭泥棒ぐらい救われない人種はいないと思っている。超越的なものを信じる内面的な力、そして熱心な発願の情熱、あるいは聖性に感じ、それと自己を対峙させたりそれに向って跪いたりできる能力、この一切を持たない汚穢に塗れた畜生外道にしかできない所業こそ、賽銭泥棒である。そしてそんな天下で最も忌まれるべき”タンパク質のムダ”である賽銭泥棒、これがいるのである。ここまででなくとも、現今の人々で「信じる力」を著しく失ってしまっている人は少なくない。彼らには「主」の声を聞き、「主」のまなざしを受け止める能力がない。

 

ここで、もう1つの策である。それは、自転車に各自(直筆で)名前を書くことである。

前回も書いたが、私は愛用していたチャリをパクられたことがある。それの何に腹が立つかと言うと、どこの誰かも知らんアホの、大体下らん都合のためにチャリをパクられたことにである。

私に面と向って「あなたの自転車を盗みますが、諦めてください」と言える畜生外道に、私はもはや言い返したり叱りつけたりしようとは思わない(ただ、海底奥深くにあろう生命の起源にお帰り頂くことを願うのみである)。私のこと、私のチャリのことを何も知らないで、そしてチャリを失った私がどう思うかなど何も察そうとしないからこそ、盗みなどという外道行為ができるのである。その上きっとそういう輩は、盗んだことを後になっても何とも思わないに違いない。

チャリをパクられることは経済的損害のみならず、生活空間をもがれることでもある。私が無意識下であれ行ってきたチャリへの意味づけを、瞬間のうちに無化する行為である。チャリの向こうに私を想定しない畜生のもとにチャリが渡ることで、チャリはその畜生の下らない都合のための鉄クズに成り下がるのである。

このチャリの向こうに、このチャリを買って、このチャリに乗って、このチャリを生活空間の一部としている人間がいるのだということを示すために、記名をしようという提案である。記名の主がこのチャリに対して何らかの意味づけを既にしており、このチャリは記名主の意に反してないがしろに扱われてはならないという、「所有の宣言」というより「このチャリを特別に考える記名主がいることの宣言」なのである。

ここからはやや勝手な考察であるが、チャリが物理的に動かせない状態になること、つまり施錠されることは、人々がチャリの向こうの人間について考えることを阻むのではないかと思う。チャリが施錠されると、それは人々に一層「静物」の印象を与える。一方いつでも動かせる状態にあるチャリは、そこに動かす主体を想定することが割合容易く、文字通り”開かれて”あると言えそうである。

 

 

ここで、1つ確認しておかねばならないことがある。施錠の手間を忌む私なのに、記名の手間は惜しまないのか?

このことに気づいたとき、私はやるせなさに泣きたい気持ちになった。しかし、「施錠の手間を強いられる怒り」は今や問題に取りかかる端緒にすぎず、論じ出すやすぐに「モラルと信頼」「インモラルを割り切ること」といった見るところ本質的な問題を本題に据えてきたではないか。そうして、ここまで長々書いてきたのではないか。

ところで、当初の怒りは結局解消されずじまいなのである。ここに、アクチュアルさというか、実際的な感じの不徹底を認める。私が”反施錠主義”を掲げて例えば東京の新宿とかでチャリに鍵せず駐めるとき、そこにあるのは、いびつな自己陶酔というか、惨めでちゃちなヒロイズム、ただそれだけなのである。

 

一体どうして、そんなに平気で人のチャリが盗めるのか。「盗んではいけない」というとんでもなく当たり前な常識をただ知って、ただ弁えればいいというのに。寧ろそんな常識からも逸脱する人間が普段、コンビニでプロレスしたり、コインランドリーの洗濯機に土砂を詰めたりのようなインモラルな行為に明け暮れることなく、さも常識知ってますがという顔をして暮らしていることに、私は激しく当惑するのである。