日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(32):森見て木を見ずは、烏有を見る

先日、時給930円のバイト先に火を放ち、抽象画で知られる画家の展示に行って来た。

 

美術館に来る人々は基本的に紳士淑女であるか、それを装わなければならない。開館より随分早く到着してしまったので、美術館のとなりにある城跡をウロついていたところ、吸血害悪虫(蚊)に猛襲され平静を失い、ソロ獅子舞を舞っていた私も、入館するやすぐに「アート嗜んでるブルジョアです」みたいな顔して歩き回っていたが、その実、歩くたびにペタペタ鳴るビーサンの音を最小限にするのと、痒みに耐えることに腐心していた。逆キルア状態である。

ところで絵を見ていると当然、後から続々と訳知り顔のSS(紳士・淑女)の皆さんがやってくる。特に北大路魯山人のような風体の初老の紳士が、腕を組んで絵に真剣なまなざしを投げかけているのには、かなり圧倒された。そうでなくとも、爽やかな大学生男女とか、人生の余暇をお過ごしになられている老年の夫婦とか、イカした髪色とファッションした美術系らしき学生とか、お利口そうな子供を連れてる白い立方体の戸建てに住んでそうなママとか、こういう”妥当な”人々が隣にやってくるたび、どうも”圧”を感じないではいられなかったのである。

日頃そこらで自分が社不だと吹聴しているツケみたいなところもあるが、ビーサンというフォーマルの正反対に位置するフットウェアで来たことも、この”場違い感”を生じさせたことにおいては共犯と言える。人々がビーサンを侮り軽んじるのと同じぐらい、ビーサンも人々のことを小馬鹿にし見下している。この前、マナー講師がムラサキスポーツの店先で、売ってあるビーサンの緒を阿修羅のような形相で片っ端から引きちぎっているのを見た。本筋とあまり関係ないので、ビーサンの話はまた別の機会にとっておきたい。

 

 

とにかくそういう経緯があって、私は時々圧を避けようと絵から遠ざかったのだが、絵から遠ざかると、絵を見ているSSが見える。絵の展示されている壁は、美術館特有の天井の高さのために恐ろしく広く、その下のほうにそっと(壁と比べて)小ぶりな絵が並べられている。その”小ぶりな”絵にSSがわらわらと群がるさまを見たとき、つまり「見るべきところのない大部分」にシカトを決め込んで、「見るべき小さな部分」を凝視している人たちを見たとき、これが何と言うか、とても滑稽だった。

 普段、家の壁を見ていても「見るべきところのない面だ」とは思わない。というかそもそも、家の壁を見ない。壁にそのような感想を抱くのは、「見るべき小さな部分」のためである。もっと踏み込んで考察するならば、露骨な「意味の場」の濃淡がそのような認識を可能ならしめていると言えよう。

 

逆に言えば、”家の壁が注目に値しない”ことに気づかなかったのは、それが一様な意味の場に存在しているからである。それも、(文字通り)想像を絶するほど濃密な意味の場に。一見、何の意味もないように見えるが、「他のどのようでもなく、このようである」時点で、何かしらの意味を考えることができる。

時々の都合でモノが運び込まれたり移動したり持ち去られたりして偶々このようである我が家の光景は”純然たる具体”(いかなる捨象も経ていないあるがままの事実)であり、その光景に属する個々の物体とそれらのコンビネーションは実に無数の意味を為し得る。為し得ることこそ分かるのだが、それらはあまりにもとりとめがなく、「ただあり過ぎるのではなく、度を超してあり過ぎるため、それがもはや”ない”と思わせる」という意味で、”意味があり過ぎ過ぎる”のである。

私の家には、意味がありすぎる。五色園には、愛知池には、愛知学院大学には、三好のイオンには、中部大学第一高校には、意味がありすぎる。

読んでてほとんど理解できなかったが、これはほとんど千葉雅也のアイデアに近いと思う。そこではこのことを「意味がある無意味」と呼んでいた(そこが本論ではなかったが)。

 

ところで、では我が家の光景とP.モンドリアンの抽象画では、どちらのほうが意味が”濃い”だろうか?

これは明らかに、我が家である。我が家は、モンドリアンの絵に勝利した!

というのは、家の景色が先述したようなものであるのに対し、絵画には、どうしても秩序と限界がある(捨象は彫刻のイメージに近いかもしれない。つまり岩の塊と、彫像の比較である)。いずれにせよその意味を酌みきることは人間にはできないが、汲み始めることができる程度には手頃であると言える。

では、美術館の壁と絵画では、どちらのほうが意味が”濃い”のだろうか?

 

ここで、私は回答に窮する。まず、家の壁と美術館の壁は、性質をやや異にしている。家の壁は端的に言って家であるが、美術館の無地の壁は基本的に、あくまで意味なき背景であろうとする。しかしある意味において、その無地の壁は”ブランク”であり、何かが代入されるべき空欄であり、マトリックスである。

ではそこに、いかなる”意味”も代入されなかったとしたら。つまり、モンドリアン展に行ったら、モンドリアンの絵はおろか、一枚の絵も展示されていなかったら。私なら、「なるほど、そう来たか・・・」と自分に向ってつぶやきながら、擦り切れるほどアゴを撫でるだろう。狐につままれたような顔をして立ち尽くすかもしれない。

それはこういうことになる。穴は、縁より外側のくぼんでいない部分があるから穴である。では、もし無限に広い穴があったら、それはもはや穴と呼べそうにない。同じように、期待されていた何もそこにないとき、そこに壁の”空欄”が顕現する。だが、考えてもみてほしいのだが、前編白紙の本など、前編真っ黒の本と同じように読むことが出来ない。だから、普通それを自由帳とかノートと理解して「読解可能性」を排除する。しかし、美術館という空間において、壁というブランクはなおも見る人に”読解”を迫り、退路を与えないだろう。「あるべきものがない」または「”ある”がない」のではなく、「”ない”がある」。私自身比喩と隠喩に翻弄されているが、手短に表現するならこうである。

 

幸い、モンドリアン展ではモンドリアンの絵画が展示されていた(当然である)。しかし、意識的にであれ無意識的にであれ既述のように観じ得るとき、SSの頭上に広がっていた「大いなる無意味」は俄然「限りなく虚ろな有」に転じる。それは、五色園や愛学の光景における「大いなる有」が「さしあたるところ無意味」に転じていたように。この相即は、いかにも禅的に聞こえる。

ただ、どんなに穿った見方をしようとも、眼前に現前する(噛みそうになる)事実を否むことはできない。逆問題なのである。その上で、端的な無とか端的な有とかというものは眉唾で、無は見通しきれず、有は汲み出しきれないということをただ弁えているだけで少なくとも、自身の矮小さへの自覚や戒めとしては足るように思うのである。