日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不精(33):ベストな習い事なんぞや問題

二ヶ月ほど下書きで腐っていた文章を放出する。

 

 

妹がもう再来年には小学生という歳になっていることに、昨日気づいた。本来なら、妹の卒園と兄の卒業が重なるはずだったのだが、【編集の都合上、省略。】

一応wakatte高田みたいな冗談を言っておくと、藤田さんは高卒の娘なので、必修の遠足を欠席するとかして保育園を留年する可能性は0ではない。保育園と名大が単位互換協定を結んでいてくれれば、兄の方の問題は万事解決するのだが(なんて情けない文章だろう)。

 

この藤田家の長女を見ていて気になるのが、親はこの人に何か習い事をさせるつもりなのかどうかということである(いるのか分からない読者にとってこれほどどうでもいいことはそうないが)。

習い事、部活、クラブの肩書きは、6+3+3年間の学生生活を通じてまとわりついてくるものであり、その”方向性”に及ぼす影響は多大である。それは学生生活を通じて形成される人間性にも当然影響する。仮に私がもし中学のときに野球部やサッカー部に入部していたら、「陽キャよいしょ係の差し出がましい陰キャ」になっていたに違いない。幸い身の程を弁えて陸上部を選択したために、「割合波風を立てない準陰キャ」ぐらいに収まった(と、自己評価している)。

そういうわけで、「もし陸上部に入っていなかったら」と考えることは、「もし自分が別の誰かだったら」と考えることにほぼ等しい。色々の大事なすべきことを差し置いてわざわざこんなクソ・ブログをお読みになる奇特で殊勝な皆さんにはあり得ないかもしれませんが、もし皆さまにめでたくもご子息がご誕生あそばされた暁には、くれぐれもこのことを軽んずることのないようお願い申し上げたい次第なのでございます。

 

 

そして個人的に最も良いと思っている習い事は、水球である。

「また何か酔狂なこと言うてんな」とお思いかもしれないが、これが意外と妥当でビックリするから聞いて欲しい。

 

まず習い事を決める上で最初の分岐は、体育系か文化系かである。

ここで、以降どの分岐でも考えなければいけないのは、「何かを習うメリット」、特に「幼時より何かを習うメリット」であり、これはすなわち、それが「今後の人生に与える好影響」である。

今大事なのは「幼時より」の部分である。これは、「(順当に続けたときに)人生で一番元気な時期に、その習い事の”うまみ”を十全に味わえる」ことを意味する。逆に言えば、折角早々に習い事を始めるなら、そのようにするメリットがより多いものを選ぶべきだと思うのである

傾向として、ガチのプロを目指すのでなければ、文化系は年食ってからでも大概出来る。体育系も出来ないことはないが、スポーツ類が最も楽しいのは学生時代であり、また最も楽しめるのも学生時代なのである。その上重要なのは、学生時代に体力やスポーツのセンスで人に劣ることは、楽器ができなかったり字が下手だったりということより明確にディスアドバンテージだということである。

 

体育系と一口に言ってもそのバラエティは無数であるが、前述の観点に立つならば、より(使える)筋力や体力の向上が期待できるものの方が良い。特に、そのスポーツの外でも使えるそれであれば、より望ましい。当たり前だが、人生それだけやって暮らすわけではないからである。

「走力」は、その意味でかなり”潰しがきく”スキルである。多くのスポーツでプレイヤーは(時に猛烈に)走らなければならないし、特に良いのは、日常生活・レジャーでも「移動する体力」や「移動を苦に思わないメンタル」は重要だからである。一方の「投げる」「蹴る」「殴る」などの動作は(カタギの皆さんならなおのこと)、日常においてさほど出番はない。

ところで、意外と見落としがちなのが、「泳力」なのである。「走力」以外で、モロ体力とリンクしているスキルは「泳力」ぐらいである。トライアスロンを考えてみて欲しい。

ただ、体力・心肺機能の向上は期待できるが、走力ほど他のスポーツに活きてこないのが難点である。さらに言えば、「泳力」自体は日常でそう要求される場面がない。マリオの水中ステージみたいな環境で生活しているなら別だが、我々は泳げなくても生きていける世界に住んでいる。

 

ここで、水球なのである。水球は、投げもする!

「投げる」スキルは前述のように、大人になってからはあまり必要にならない。ところが、学生たちが熱中するスポーツや体力測定において、肩の強さはその強みを発揮する。

肩が強いヤツは強い。なぜなら、球技は小中学生の間に「チーム」を作るからである。そして体力測定は小中学生の「強さ」を証明するからである。走れて投げれるヤツは、走れて投げれるだけのヤツにはならない。

 

しかし、ここで当たり前の反論を想定できる。「じゃあ、野球とかサッカーで良くね?」である。体力はつくし、”強い”学生になる可能性を十分高められるからである。

ここで、別の観点が大事になってくる。競技人口である。

野球やサッカーに取り組んでいる少年少女は、腐るほどいるのである。勿論、競技人口が腐るほどいることのメリットはある。しかし、「競技人口が腐るほどいることのメリット」を享受している人口もまた腐るほどいるのであり、一方「競技人口が少ないことのメリット」に浴する人口は当然比較的少ない。後者のメリットの方が、他人に対して自身の強みとしやすいのは自明である。

1つのそういうメリットとして、「自己紹介における強さ」がある。

自己紹介において、「水球してます」の一言のインパクトに並ぶために、野球ならどれだけ頑張らなければならないか考えてみるがいい。少なくとも自分には、「中学のとき野球で全国大会出ました」とかでやっとに思える。

自己紹介で人々の心をつかむ難しさは、そうしようとしたことのない人にはおそらく分からないだろう。私は何度「勅使河原」みたいな珍しい名字に生まれていたらと考えたか(藤田は藤田で嫌ではないが)。特段変わるところのない普通の人なのに、変わった名字だったというだけで覚えている人が何人かいる。この人たちはおそらく、彼らの凡庸さにも関わらず人々に記憶されるラッキーに気づいていない。

 

体力がつき、体力測定に活き、競技人口の少ない競技ならおそらくまだあるだろうが、格闘技は個人的にあまり好ましく思わない。

どのように理屈をつけようとも、格闘技が人を殴ったり蹴ったりするスポーツであることは誤魔化せない。人格が完成されてない幼少のうちに「人を殴ったり蹴ったりすることに自信を持つ」ことはあまり良いことではないと思う。その1つの悪い結果として、人を押し倒すことに自信を持った、人格的に未熟な面々が集まることで生まれた一部のラグビー部の精神風土が思われる。

ただ水球も「水中の格闘技」などと呼ばれているらしいので、手放しで歓迎というわけにはいかない。しかし、なにぶん知り合いに水球プレイヤーがいないので、”水球部の精神風土”などというものは”ツチノコの育つ環境”ぐらい見当がつかない。

 

 

水球を褒めちぎる文章は以上である。それにしても、習うべき芸というのは世に実に無限にある。天津木村が詩吟とかいうマイナー芸能を武器に一世を風靡したところなど見ると、古諺の通り芸は身を助けるのだなあと感心せざるを得ない。詩吟に習熟するメリットなど普通、声の通りが良くなるか、共通テストの漢文で漢詩が出ても動じなくなるくらいしか浮かばないではないか。