日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

筆不抄(36):芦田愛菜はもう

ピラメキーノのベタベタのギャグに沸くスイミングスクールの送迎バスの中で私は、私みたいな隣の学区の小学生と芦田愛菜の悪口を言い合っていた。我々芦田愛菜より4つ年上で、戸建てと集合住宅が地表を覆う名古屋市名東区の、繁華街の寿司屋の生け簀ほども人が密集する西山小学校に通い、「友人にランランルーと言われた」から喧嘩し、「ジエン・モーランの素材が欲しい」からとPSPを携えて友人の家までチャリを駆っていた。そして、芦田愛菜(ついでに鈴木福)の悪口を言うことが面白いことだと、本当に思っていた。

芦田愛菜の暮らしについて、私の想像は及ぶべくもない。一応書くが、我々がかの滑稽なダンスを笑っていたころには既に、芦田愛菜は我々と相容れる必要が立ち消えになるほど我々と隔たって存在していた。それは(当時我々が考えていたような)あの送迎バスの小汚いテレビの此方/彼方という隔たりではない。

芦田愛菜がどれだけ多くの才人に囲まれ、どれだけ多くの処世の上での試練と戦って、どれだけ多くの人格的修養の機会に恵まれているのかを考えることに、意味はない。芦田愛菜がかのようにあり、我々にかのような印象を与えているというただその事実があるから。芦田愛菜をかく才媛たらしめた無数の要素のどれ一つ、あるいはその全てを挙げたとして、それによって私の抱くこの虚脱感が和らぐことは、万に一つもありもしないのだから!

芦田愛菜は、その発端において強く意志したかどうかは分からないが、もはや本人でさえ抜け出せない正のスパイラルの渦中にいる。まさに指数関数的に、乗算的に飛躍的に、己をアップデートしていくだろう。そして、そのことにまさか気づいていないはずがない。市井の民が、見るたびはるか低き場所を彷徨しているのが、まさか見えないはずがない。

芦田愛菜は才媛に磨きをかけ続け、他方私は地表の淀みに日々寝起きする。我々のうちの誰ももう芦田愛菜の悪口など言わない。しかし我々は「ジエン・モーランの日々」で、芦田愛菜に蓋をする。そうやって、既に芦田愛菜から峻烈に和解を拒まれた我々は我々で最後の抵抗を敢行するのである。そしてその妥当性を証すように、我々は日々を適当に、おおまかに、緩慢に、おざなりに生きる。

芦田愛菜に適おうなどという、僭上な企みを抱いたことはついぞない。私は見ての通り平身低頭し、懺悔の口上を申し奉っているのだ。しかしどうだろう、芦田愛菜はもう、とうにそこにはいない。

 

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