「意志あるところに道はできる」という言葉を、最初に言った奴は誰だ。私はかつて、全国の高校教員0人に対しメールで座右の銘を尋ねるアンケート調査を行ったのだが、結果は0人中300万人がこの言葉を挙げていた。しかもうち100万人は自身の肉声をMP3に変換したものを添付して返答してきた。もし全国の高校教員と実業家をポートメッセ名古屋に集結させ、ショムニの江角マキコみたいな格好をした私が朝礼台の上から拡声器で「Where there is a will?」と尋ねたならば、彼らは満場一致で、そして金城ふ頭を名古屋港に沈めるほどの衝撃を伴う大音声で「「There is a way!」」と返答するに違いない。両親とも高校教員をしているある家庭では、その長男に「道男」と名付けたところ、「WAY」という模様の蒙古斑があらわれたので、海底トンネル工事の人柱にされてしまったという。
「志有る者は事竟に成る」も要は異口同音である。
テンプレ座右の銘、テンプレ激励、やめろ!
座右の銘に関しては、本当にこの言葉に感じて、この言葉を墓標に刻む心意気でいる人も相当数いるであろう。「好きなアイスの味は?」と聞かれて「バニラ」と答えた先方に対して「テンプレフレーバーやめろ!」とキレる私ではない。
しかし「座右の銘は何ですか?」とは、汝の生き様を一言に縮約するならば何と申すか、という問いである。「私の座右の銘はXXXです」という返答は、すなわち「私は『私の座右の銘はXXXです』と答えるような人間です」という返答なのである。あるいは、「これ以上私を震わせる言葉に遭ったことがないような人生でした」という白状である。かのフレーズがトップ・オブ・名言であることに異存はないという表明である。
それが「バニラ」でいいのか。あるいは、「私はバニラです」と言いたいのか。
クリシェに堕した「意志道」の成句は、次のステージへ進まねばなるまい。そして我々も、「意志道」の成句を乗り越えて、次のステージへ進まねばならない。「意志道」は現状、結婚式のスピーチにおける「人生には3つの坂が...」程度のメッセージ性しかない。オチでは決してない。
しばしば見られる粉飾の技巧は、例えば「意志あるところに道はできる。但し...」のパターンである。しかし、「意志道」の部分が既に耳にタコなのであるから、いくら制約が的確でも、「興味」の点で根本解決になっていないように思える。
あるいは、逆に「意志道」ということもある。というか寧ろそうだろう。それを老成ととるか妥協ととるかはさておいて。しかし座右の銘は、墓標に刻みたい言葉であるより、家の表札に刻みたい言葉であるべきだ。