日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月6日 木曜日

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フッ軽を尊ばない大学生はまずいない。フッ軽を実現する機動力と行動力、そしてそれらを裏打ちする精神力や胆力、これらに憧れを抱かない大学生はまずいない。特に機動力である。脚の丈夫な大学生は多いが、腰が重いのである。尻軽なのに腰は重い女子大生だっている(知らないが)。

フッ軽判定は突然になされる。例えばある日の午後に知り合いとばったり合うや、先方から「そういえば明日ドライブ行くんだけど来ない?」などと持ちかけられたとする。この音声信号を受信し脳内で意味のある文字列に変換してから、長くてせいぜい5秒そこらだろうか、この間に「応」と腹の底から言えなかったのならば、その者はフッ軽ではない。フッ軽ならんと欲せば、常日頃からフッ軽マインドの用意がなくてはならない。フッ軽が真にフッ軽であるのは、フットワークの軽さよりもフッ軽マインドによってである。打算や選り好みを排して、音の鳴るほうへダイブする用意こそがフッ軽の真髄である。「誘いを断れない人」はフッ軽ではない。己の脚で飛び跳ね駆け抜ける者がフッ軽である。

そしてこれこそが鬼門なのである。時々、自転車で何ヶ月かにわたって日本を旅する大学生がいるが、何かに追われて、何かに駆り立てられてではなく、何かを追って、何かへ向って日本列島へ漕ぎだした学生がどれだけいるのだろうかと、たまに考える。自由や余裕は、「なす」ものではなく「なる」ものである。フッ軽もそうで、マインドという土壌なしに、いたずらに人々に追従し、そしてそのことで得意になっている輩の惨めさには目も当てられない。まして、彼らがそういう下らない小旅行や遊興に時間を浪費したことを嘆く日には。スギちゃんが生気の抜けた顔で炭酸の抜けた2Lコーラを啜り、武井壮が真顔で黙々と南米奥地のジャングルで猛獣珍獣を屠る姿を思ってみよ。

つまるところ、無い自由さを恋うなという話である(ここでいう自由とは、勿論フッ軽的な自由さのことである)。幸福や友情も、蓋しこの類いのものであろう。ならぬからといってなそうとするな。ありがちな逆説であるが、それらへの頓着から離れてはじめてそれらと見えること叶うということは、往々にしてある。

思い立ったら吉日であるが、思い立たぬ日は凶日である。フォローではないが、何かをしないということも一つの行為であり、何かをしなかった日は必ずしも何もしなかった日ではない。