日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月9日 日曜日

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「力こそパワー」のトートロジカルな(進次郎ジカルな)自明性は、かつてほど世人に訴えるところがない。今一番パワフルなのは体力・筋力ではなくて、知力である。先の言になぞらえるならば、今や「知力こそパワー」である。

「知は力なり」とあるが、寧ろ「力は知から」と言ったほうが適切な気はしている(シャレが少々サムいが、ところでかく説いたフランシス・ベーコンを殺したのもまた寒さであった)。なんにせよ、昨今のトレンドは間違いなく「知」である。日の没するオクシデンタルラジオ状態だったオリエンタルラジオが恙なきや状態に復することができたのは、藤森のAKBに媚びを売る芸以前に中田がインテリ路線にトランスフォームして一発当てることができたからだと言えるし、メイプル共産党カズレーザーなんかも、無数のキャラが渋滞してはいるが、ここのところはインテリ芸能人枠でブイブイ言わせている。フランス在住の日本に物申す日本人があがめ奉られたり、高学歴/教育系YouTuberが人気を集めたり、この手の例には枚挙に暇がない。

というか、知はなんやかんや力になってしまう。「部下を動かす心理学」とか、「仕事に活きる禅の教え」とか、「成功する人は実践している?!哲学的思考」とかなんとか銘打った、本の形をしたファッションアイテムを本屋のような店構えをしたアパレルショップでしばしば見かけるが、実際心理学には部下を動かす力があるし、禅には仕事に活きる部分があるし、哲学的素養のある”成功者”はきっとごまんといる。そしてただ知が知であるというだけで知を欲する、あるいは実用書や科学読本を免罪符か何かと勘違いして汚らしく小遣いをばらまく惨めな”インフルエンシー”、”消費者”がいる限り、知は力になってしまう。

一方で、知はときに(しかし現今は大体の場合に)病であり、「痴」である。痴とは、白痴と言うように、本来無知や知恵遅れを意味する漢字であるが、考え方を変えれば、「生兵法は怪我を招くし、なまじいな知識は人を愚かにする」という意味にとれよう。知ることは痴(し)れることであり、物知りは物sillyである。

こういうスタンスは勿論過去幾度となく出現してきた。筆頭とも言える、いわゆる「無知の知」は、今や一般教養と呼んでもよいほど周知されているが、基本的に「知の知」すなわち「無知の無知」への痛烈なカウンターとして理解される。しかし、「無知の知」も「知」であることに変わりないことを思えば、ある種同じ穴のムジナではないか。

となれば、残るは「知の無知」である。神託を得てからストリートファイトを始めるまでのソクラテスの状態はいわば「知の無知」であり、彼はこの状態に安らいでさえいれば、論破&マウント行脚へ乗り出した結果毒ゴクゴクの憂き目を見る羽目にはならなかったであろう。しかし、無知は脆い。人は余計な思案や詮索をせではいられない。現に「知がどうこう」とかこう訳知り顔で駄文を書き連ねれば書き連ねるほど、私は脳内を邪知でいっぱいにする格好になり、足下がどんどん覚束なくなっていくではないか。

ソクラテスでも泣く子と地頭を言い負かすことはできまい。特に泣く子には。最弱はときに最強である。最低は時々最高である。実際、無知は至福ともいう。負けるが勝ちとも。

しかし先にも書いたとおり、無知はいつでも三日天下である。となれば、知るが如く知らず、知らざるが如く知ることができたならば。なんだそれは、野狐禅も大概にせよ、といった感じであるが、改めて見ると、かつて運動部に所属していた人ならきっと誰でも聞き覚えのあるはずの「練習は試合のように、試合は練習のように」に近いものを、この早口言葉に見て取れるか。要は、試合と練習の別、知と無知の別とかを語る時点で既に誤っていて、教科書とPCを焼き、大学教授を八事霊園に埋葬して、東山公園の裏山を開墾して、名古屋とその隣接市町村の間に城壁を築けということである。ああ、全然要せてない。もうメチャクチャである。言葉を濁したんじゃなくて、言葉が自ずから濁ったのである。書くのに疲れた。もう今日はこれより、なにをかいわんや。