日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月10日 月曜日

f:id:Betterthannot:20220110150357j:plain

 

自己紹介のときに、我々は最も手頃におのが独壇場を得る。

人間生きていると、不意に「打席」が回ってくることがある。そこでは、投手も球種も球速も毎回異なる。むろん我々は、自分の打席で必ずしもバットを振る必要はないし、場合によっては振らない方が賢明なこともあるが、一方で稀に(しかし全くないこともまた稀)ツーストライク満塁みたいな状況で打順が来ることもあり、こういう場面だと逆に無難にやり過ごす方が難しい。

自己紹介は数ある打席の一つ、しかもかなり一般的なそれである。そして相当「打ちやすい」部類の球が来る打席である(というか、ある種ノックみたいな感じか)。何故に打ちやすいかと言えば、自己紹介の場において、時間と空間が、丸々打者に明け渡されるからである。むしろ、その場の時間と空間を担い持つにあたって、または譲り受けたそれらの”補償”をするのに、あるいはそれらを打ち返し押し返すのに、自分に関する情報をただ紹介するだけでは不十分なことも少なからずある。例える必要もないとは思うが、ムギムギの実の赤シャツ隊の青年は官民(?)関係無く彼の前に立ち塞がる者どもに拳で抵抗するが、クロコダイルやロブ・ルッチみたいな盤面ボスに対して、ジャブやローキックでじわじわ疲労を蓄積させて倒そうみたいな地道で見栄えのしない戦法は採らない。彼は正統派カリスマなので、空島の宙船(エネルはスカイピアのタワマンに女子高生を呼んだりしていない)や海軍本部など、デカいステージではデカい戦い方をする。「ほとんど一般人と変わらない海兵を全力で殴ったらどうなるのかナァ...」みたいなドス黒い好奇心を発露させたりということも、またない。

加えて特に重要なのは、自己紹介はだいたい各ゲームの初打席になるということであろう。ここで思い切って振ることで自分が「振れるヤツ」だと周囲に示すことの意義は、存外大きい。いや、本当に意義深いのは、それを自分自身に示すことだ。

ゴムドットのルフィは、物語の中で頻りに「海賊王に...」と己の志を語り、ほとんど常に身分不相応な試練と己を対峙させようとする。これらに自己暗示の意味を読みつつ、改めて彼の背中に視線を戻すとき、その悲壮感に私は当惑を禁じ得ない。冗長戦争(頂上戦争)で兄のイッチを救うことができなかったときには(文字通り)致命的に自己肯定感を挫いていた彼だが、彼はある意味潜在的に常にあの状態なのである。

 

ああ、本当にしたたかでありたいと願うなら、バットを手放すべきなのだ。バットを振る運動は、相対的にはバットに振られる運動である。そうだ、いつでも私はバットのバットであった。ヒットとかホームランとか思っていた諸々は、全部デッドボールだったのだ。

自己紹介とは、特定の人々にしてみれば、何かしらの集まりにおいて、あらかじめ(ジョー・ギブソンから)デッドボールを食らうことで、平穏なる此岸を発つ、すなわち卒することを目的とした、おぞましい儀式でもある。素朴な退屈に安らう胆力がないから、断崖に向ってアクセルを踏むスリルの麻薬を断つだけの意志の力がないから、我々はいつも落下運動のさなかで、天地も分からず、重力を忘れ、高揚感に食傷しているではないか。

 

1000字を超えると、どうしてか文章が悲観的になる。ところで、「始めが肝心」であるが、個人的には、ここに「〆に用心」を続けたい。大学祭の下部組織みたいなのにいたとき、割合他の構成員と良好な関係を築けていた(と思ってた)が、打ち上げのカラオケで個人的に致命的なスベりを経験して、二度と彼らに会いたくなくなったことがある。始めが肝心、〆に用心。アタマがマター、ケツは大切。