日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月12日 水曜日

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新世紀・Z世代のヴァンガードを以て自ら任じる小生、いや大生は(誤った日本語)、朽ちて崩壊しかかった納屋いっぱいに死蔵された腐臭を放つクラシックジャパン・プロバーブズにケチと難癖の百烈拳を叩き込み、化学薬品でクレンジング&ブリーチしたのち中庭の物干しに首実検よろしく陳列したのを、縁側で湯飲みに注いだ季節のカルピスソーダを啜りながら眺めるのを趣味としている。三が日に、スリランカ人が取締役を務める不審な造園業者に台所の水漏れの修理を依頼したら、台所を枯山水に改造されてしまった。血迷って枯山水に水をひこうとする彼らにムエタイで抵抗したところ、全消化器官をセラミックにされ、台所が不要な身体になったため一件落着した。

 

どんなことわざにクレームをつけるときでも常に重要であると思われる着眼点は、「なぜ別様ではなく、この様であるのか」である。一見するところ「それはそうだけど、それがどうした?」程度の関心しか払いようのない凡庸なこの格言についても、「なぜ別様ではなく?」の問いの有効なるを認めるのは難いことではない。つまり、どうして「知者」の特性として、そして「勇者」の特性として、他の何かしらではなくこれらが、さらにはなぜ「知者」と「勇者」が、他の何かしらではなく、並置されているのか、...において、私があと700字くらいの文章を書ける”書きしろ”がある。

ところで、ここ最近私が隔日ペースでせこせこ投稿している散漫で見苦しい文章において言わんとしていること、私的トレンドを要約するなら、「美徳は悪徳の裏返し」「美徳への憧れという悪徳」という”典型的な逆張り”である。この観点に立って、先に提起した問題(仰々しい)の前者へ応答を試みるならば「惑いを怖れるからこそ知者たろうとし、懼れを怖れるからこそ勇者たろうとする」ということになろう。知者や勇者は惑いや懼れを克服した気になっているのであろうが、過ぎたるは及ばざるに如くように、決してそれらから自由の身ではないように思う。

冒頭の意味不明な一段落のせいで著述家ごっこに割ける紙幅がかなり圧迫されてしまっているので、足早に上に挙げた二つ目の論点を見ていくことにするが、しかしこの言の妙味は蓋しここに、「知者」における惑いと「勇者」における懼れを対置させたところにあるのではないかと、薄々感じている。惑いと懼れ、これらはそれぞれ理念と実践の次元における不安である。とこう書いたが、それらが截然と分かたれたものではないことは直観的に理解できる。臆する知者も愚なる勇者も五十歩百歩であろう。

 

そういえば高校倫理では、プラトンは魂の三部分として「理性」「気概」「欲望」があり、これらの”達成”がそれぞれ「知恵」「勇気」「節制」で、この全ての調和において正義があると主張したというようなことを習った。この説に言われる徳目が「知者は惑わず...」に言われる「知」や「勇気」と必ずしも対応しているとは考えないが、一旦これを踏まえてみると、どうにも「欲望」の異質さを思わざるを得ないではないか。

プラトン自身の用いた比喩では、気概と欲望が2頭の馬で理性がこれを御しており、確かにそういう考え方もできないことはない(というか提唱者がそう言っているわけだが)。しかしこの図式を採らない、つまり理性と気概が(実験的に?)並置されたかのことわざの中に敢えて「欲望」を見ようとするなら、それはどう考えても、「惑い」と「懼れ」の部分にでしかありえない。

欲望のラディカルさ、これである。美徳も所詮悪徳に過ぎないのは、そこに欲望が底流しているからである。上に見た「知ー勇気」というヨコ、「知ー惑い」「勇気ー懼れ」というタテ、この両対立に欲望が潜伏しているという指摘は、いかにも説得的な気がする(レトリックに傾斜しているの観は否めないとはいえ)。

このような次元を拡張して新たな対立図式を構築する感覚を、我々は既に知っている。例えばマザー・テレサの有名な言葉「愛の反対は無関心である」についても、ふつう人々が思う「愛ー憎」という対立に対して、「愛憎(関心)ー無関心」のように次元を拡張するアイデアだったと解釈できる。

では、欲望の対立項は何であろうか。無欲か、節制か。しかしこのいずれも、下部対立の中の「美徳」以上に清潔なものではない。見よ、入れ子なのである。「美徳たろうとする悪徳」「無欲たろうとする欲」、これらは自明に同質である。では...

 

では、次のことが明らかになったのだ。以上の1800字には(特に最初の300字には)、何の意味も無かった。結局この文章は、一昨日までに私が必死に書き散らしてきたこと以上の、何も言っていない。ただ、エジソンではないが、失敗と分かったことは一つの成功とも言える。しかし今のエジソン理論も、6日前にさりげなく書いた。だからもう、以上の文章には本当に意味がない。こうなってくると逆に、最初の300字こそ、今日の文章の中で最も読むに値すると言える。そう、最初のまあまあ無駄な300字をネットのゴミ山に投棄するために、あとの本当に本当に無駄な1700字が必要だったのである。