日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月18日 火曜日

f:id:Betterthannot:20220118205415j:plain

 

「工期延長事件」という事件がある。私の中で。説明するのが難しいのだが、たしか中3のときの社会の授業で、「グラウンド(体育館だったか?)が工事でしばらく限られた面積しか使用できなくなり、各部の部長たちがそれぞれグラウンドを使う権利をめぐって争っている」という状況設定のもとでこれを仲裁しよう、という下らなすぎて噴きだしてしまうようなグループワークの時間があった。グループの話し合いでは、始まってすぐに「このエゴの戦場を平定することは不可能」という見解で一致した。そして、前提の時点で人格が与えられていない工事の方に譲歩してもらうのが妥当ということで、「工事を延期してもらう」という、前提を捻じ曲げる力業の結論に至った。

グループの考えを全体で発表しなければならなかったのだが、発表者は私であった。グループとしてもこの結論の”渋さ”は承知しており、我々の班はババ抜きでいう”ババ”だという自覚が(おそらく)皆あったので、他の班のように淡々と発表して先生に苦い顔をされるより、ババに徹して鮮やかに散った方が良かろうという「美学」を(おそらく)共有していた。その「美学」に則って、班の調子者が「発表のとき、両手で教卓を叩いて迫力出そう」みたいな提案をして、私はそれを呑んだ。

そして順番が回ってきて、私は教壇に立った。私は彼の提案通り、教卓を結構な強さでシバいて、「工期を延長します!」と声を張った。

 

工期を延長してどうする。瞬間にして教室の空気が終わった。

この言い間違いのせいもあってか、我々(特に私)はよほど気にくわなかったと見える先生の勘気を被り、説教を食らった。以上が事件の経緯である。

 

敗因は油断だった。あのときの私は「ババをやる」自覚が不十分だった。「ババ」は本来的には”敵”であるという認識を、臨戦意識を欠いていた。

この前図書館をウロついていたときに「ワタミ社長の魂を燃やすnの言葉(n∈)」みたいなタイトルの本をたまたま見つけ、パラパラめくってみたのだが、そこにたしか、鉄棒の練習をする学生に向かって「人生だと思って(鉄棒に取り組め)」と激励する体育教師の話があった。「人生だと思ってやれ」、あのとき私に必要だったのはまさにこの言葉だった。「常にベストスコア」とか「凡事徹底」とかいう類いの意識にはない緊張感、臨戦的な高揚感が必要だった。というか、アレはつまるところ人生であり、「死ぬこと以外かすり傷」ならぬ「死ぬこと以外致命傷」みたいなところがある(実際に(?)かの会社では労災で社員が物故している)。清々しいほど矛盾しているが、逆説を弄する恒例のスタイルである。

人生を人生だと思って生きている奴には勝てない。徒然草の「矢を射る練習をする者に、ある師は二本目の矢を用意させず、『この一発で絶対に射抜く気でやれ』と言った」みたいな話がいつかの国語の教科書にあったが、その単元の「みんなで話し合おう」みたいなページにたしか、仮想的な学生の「わたしは二本目の矢を用意するべきだと思う。そのほうが落ち着いて取り組めるから」というような意見が載っていた。この名古屋市に住む学生はそののち中京大学に推薦で合格し、そつなく一般企業から内定を得た直後、露のように消滅したという。名大総長の革靴を出勤前に温めた功績によって名古屋大学ファシリティ学部クレンリネス学科に入学し、日夜豊田講堂の床磨きに勤しむ私も、最近やけに足先が冷えるなと思って目をやったら半透明になっていて驚愕した。Ctrl+B。