日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

1月29日 土曜日

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武士とは、腹がパカパカ裂けたり首がパカパカ外れるギミック人間の総称である。

史上最初のハラキリに及んだサムライは、本当はそれをギャグのつもりでやったのである。引責ハラキリ、窮余のハラキリ、これらは明らかに爆発オチの遺伝的な先祖であるどころか、爆発オチよりも多くの場合に優れたオチであるし、現代のユーモアに特有のチープで小手先の技巧にかかずらうシュールさよりもずば抜けてシュールであり、その意味で気味の悪いほど先取的なユーモアと言える。詰まるところ、彼らはコントに最高のオチを与えるためならば命をも惜しまないマッドエンターテイナー集団なのだ。

あまりハラキリを茶化すと、ハラキリでショーグンを失ったローニンたちに討たれかねないのでこのへんにしておくが、しかし切腹という奇習が現代に生きる私の心を揺さぶる何かを持っていることは事実である。切腹に限ったことではない。二言を許さず、二君に仕えず、義理と名誉に死ぬサムライソウルな人々の逸話を聞くと、彼らへのリスペクトと同時に、しばしば言いようのない心細さを覚える。

 

ところで、サムライと我々、どちらの方が人の命を粗末に扱っているだろうか。と改めて問われると、確かにサムライはパカパカビックリ人間であるとはいえ、サムライと即答することは躊躇われるのではないだろうか。我々はそう簡単に肉体がパカつくことはないが、決して自分たちの命を大切に扱っているわけではない。寧ろ、サムライが自身のハラキリを節操のないハラキリ(?)とならないようにするためには、サムライがハラキリによってなげうつ命は大切なものでなくてはならず、この論法でいくとサムライのハラキリの凄みは命の大切さを基礎としていることになる。節操なき生と節操ある死では、どちらの方が命を大切に考えていると言えるのか。

などと言うと、じゃあそもそも命とは何ぞやなどといった泥沼に落ち込むわけだが、そういう議論は当お気楽ブログの守備範囲ではなく、ちゃんと世には泥沼スイムの専門家がいて、彼らが日夜終わらない干拓事業に勤しんでいることなので、そのへんは適当に誤魔化すことにする。それに、そんなことは今さして重要ではない。

サムライと現代人は多くの点で対比的であると思われるが、さっきの流れから「サムライは死に急ぎ、現代人は生き急いでいる」という対比も可能であるかもしれない。まともに食らえばほぼ確実に死ぬという凶悪極まりない兵器・カタナをほぼ常時腰に佩いて過ごすサムライはどう考えても死に急いでいる。現代人に「あなたは生き急いでいるか」と聞いたら大体「否」と返ってくると思うが、多くの場合で寧ろそれが生き急いでいる証拠になるだろう。反対に、生き急ぐ現代人はほとんどの場合で死に急いでいない。

ただ、相違点とは共通点があってはじめて生じるものである。この二項についても、割と明らかに「急いでいる」という共通因数が存在している。ところで、「急ぐ」の対義語は何であろうか。「なずむ」などであろうか(私のコーパスには武田鉄矢のアレしか収録されていない。漢字では「泥む」と書くらしい)。ではここで、「生きなずむ」「死になずむ」という”不適切な日本語”を案出してみると、後者は実に我々のことを指しているように感じられないか。

これを承けて、命を大切にしていないことと死を大切にしていないことの連関が気になってくる。ここで、「サムライは命を大切にしている説」のロジックを振り返ってみたい。サムライが(我々からしてみれば)軽々と己の命を絶つのは、それが大事な命だからこそである。このことを、「死を大切にする彼らは、死に供する命をも大切にしなければならなかった」と言い換えられるか(さっきからサムライはサムライはと好き勝手書いているが、別に私は武士や武家社会や武道の精神、武士の倫理の何を知っているわけでもない)。そこから、死を厭い、死をないがしろにしてきた我々は、その生も同時にないがしろにすることとなった、というロジックを導くことは難くない。

 

度々サムライを茶化すことで重苦しい文章とならないように努めたが、限界がある。そういえば、冒頭で「ハラキリはギャグだ」みたいなことを書いたが、実のところ人の死全般について、これらは人生の数あるイベントの中で桁違いにシリアスで、シリアス過ぎるあまり、翻ってシュールになっている節がある。この例えるなら、パンパンに膨れた風船が破裂して萎むような印象上の現象は、一歩退いて見ると大変気味悪い。