日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

2月9日 水曜日

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名古屋大学中央図書館、もとい名古屋大学中央セルロース貯蔵庫に収蔵されている、おびただしい数の文字が書きつけられたおびただしい数の書物のうちの、一体どれだけが真に読むに値するのだろうか。インドの古典・マハーバーラタは英語での全訳が全10巻で出版されている。岩波のヘーゲル全集は全部で32冊。長島書店から出ている中村元の全集は全40巻。大蔵出版から出ている大蔵経は全88巻(ちなみに定価150万円)。私は2年弱の間このブログで計77記事も書き散らしてきたが、1記事1500字弱とすると全部で10万字くらいになり、文庫本1冊くらいの分量に相当する。今ちょっと挙げた本やお経(やブログ)ほどのボリュームの書物を一生のうちに読み切れってしまう人などほとんどいなかろう。

世に流通する本のほとんどは誰かに読まれるために書かれている。そのことを踏まえて、改めて名古屋大学可燃ゴミ中間貯蔵施設の書架にひしめく古紙の束を眺めるとき、その光景は俄然圧倒的なものとなる。同時に、挑発的なものにもなる。フロアを埋め尽くすこれらの日本語カタログが全て、我々に読まれるために書かれているなどと言う。世にはこんなにも読まれるべき、知られるべき情報があるのか。いや、あるわけがない。ひらがなカタカナが各約50字、ラテンアルファベットは大小合わせて約50字、常用漢字は2000字ちょっと、句読点と感嘆符が若干。また、一般的な日本人のボキャブラリーは5万語程度。世に溢れる万巻の書物、もはや牛が汗する程度では牽く能わぬ典籍の氾濫は、たかだかこれだけのコンビネーションに過ぎない。般若心経はたかだか260字。ヘミングウェイは6単語で小説を書いた。「南無阿弥陀仏」、全部で6字しかない。聖音「唵(オーム)」は、たかだか三音からなる。じゃあなんで、こんなに大量の本が世に、あるいは少なくとも名古屋大学に必要なのか。答えは、というか真相は、要するに必要ではないのである。

日本では1日に大体200冊もの本が出版されているという。既にガンジスの砂粒の数ほどの本が世に溢れているというのに。これら膨大な冊数の書籍を差し置いて読むに値するコンテンツを備えた本が、すなわち10万字前後の文字列が、日に200冊も編み出されるわけがない。そんな、火事場に薪を投げ込むようなことをするな。奢るな、侮るな。ただこのことに関しては、ごく少数の人々が読んだり読まなかったりしているらしいこのブログも同罪であり、私はさながら怒りのままに己が尾に牙を立てるウロボロスである。

 

前置きのつもりだった文章が1000字を超えてしまった。

我々は日々知識の収集に明け暮れるが、拾い集めたそばから既に持っている知識のいくらかをこぼしていくし、第一ひとたび死ねば、何十年とかけて集めた知識は残らず全て消滅する。改めてこのことを思うと、とてつもなく虚しい。

それに、生涯かけて得る知識の半分ぐらいは、おそらく本当に役に立たない。役に立つもう半分の知識も、要は金に換えられる、詐術に使える知識というだけのことである。よく練られた10万字の文章は1000円くらいの価値があり、100字を約1円で買う人が世間にはたくさんいる。よくまとめられた教科書数ページ分の知識を喋る大学生に1000円ちょっと払ってくれる大人が世間にはたくさんいる。

では、東京大学の入試問題をパスするための知識、これには、結果論でいけば東京大学ではない大学に進学していたら得られなかった機会や利益だけの価値があると言えるだろう。だが例えば、私が受験した年の名大文系数学では頻出範囲だった確率漸化式が出題されず、代わりにたしか三角関数関係の奇問が出題されたが、この場合、私が辛うじて入試当日に持ち合わせていた三角関数の知識のソースには、私が一応その時点で受かっていた東京の私大とかに仮に進学していた場合にその後得ていた機会や利益と私が今後得る予定の機会や利益との差分だけの価値を見ることができるが、その一方、受験期習得に努めた確率漸化式の知識には結果的にびた一文の価値も見込まれないことになる。さらには、私が例えば私の怠慢に激昂した研究室の教授にヴァジュラで撲殺されるなどしたら、さっきの知識の金銭的価値は一挙に私の想定生涯年収と同じだけの負の値をとることになる。

上の例で見られたのは、知識自体の価値(特に金銭的な)を問うことは至極ナンセンスであるが、一方で知識の授受に金銭的な価値を付与することは比較的”安全”であるということである。この構造は、ただの精巧な文様が施された紙切れを「1万円札」と呼んで価値を付与している現代貨幣制度と似ている。

 

では、知識自体には、それを得る個人にとって何の価値もないのか。もし何かしらの価値があると考えるのなら、我々は知識の教授を最低限に留めるべきであるように、私は感じる。(少なくともある種の)知識は持っているだけでいいものだと考えるなら、極力持っているだけで満足するべきだと思うのである。自分が持っている骨董品に価値があると思っている人なら、それを無闇に売り払ったり、今田耕司鑑定団に持ち込んだりはしない。

勿論、知識は骨董と違って人に譲っても無くならないし、真に持つべき知識だと思うなら努めて普及するべきであるかもしれない。しかし、節度をもって知識の取引に及ばなければ、知識の価値を結果的に貶めることになりかねない。ポケモン・ダイヤモンド/パールに出てくるきのみじいさんは、(システム的には無尽蔵のきのみを有していると思われるが)「きのみの素晴らしさを伝えるために配っています」などと言って節操なくきのみを配っているが、彼は所詮きのみATMとしてプレイヤーたちに適当に利用されているに過ぎず、きのみの素晴らしさの伝導という高尚な目標に近づいているのかについては甚だ疑問である。同じように(?)、宗教の教義とか哲学者の思索とかが安価で大量に切り売りされた結果、これらを言葉の上でしか解さない職業学者や人文オタク、有閑の”紳士”が大量生産されたのではないか。

隋の慧可という僧は、弟子入りを認めない菩提達磨に対し自分の左腕を切断して許しを請うた。唐の玄奘は命を賭してインドまで30000kmの道のりを歩き、仏典を全力で収集・翻訳した。そもそも、菩提樹の下で悟ったブッダはその悟った事々を人々に教え広めるつもりはなかったのだが、わざわざ梵天(インドラ)がブッダにそれを人に説くように三度も請うて、ようやく仏教が地上に出現したのである。こういう人々(神々)について少しも思いを馳せることなく、「仏教は死の宗教、キリスト教は生の宗教」とか「禅とビジネスは親和性が高い」とかぬけぬけと語る厚かましさを知るべきである。しかし実際私は今、玄奘がインドまで30000km歩かなければ手に入らなかった情報に、たかだかインド哲学研究室まで3km歩けばアクセスすることができる。こうなってはもう下らない。

さっきから論点がいちいちブレているが、少し話を戻すと、私は、知識を無闇に共有しないことで以て、知識自体が私にとって益になるという信念を肯定してみたいと思うのである。少し前から意識している、不必要に肉体を鍛えて心の弱さを誤魔化すのをやめようという思いつきと、虚飾を排すという方向でいくらか軌を一にしている。ただ、そのように言いながらこの記事を書いている現実において既に矛盾を来しており、それは完全に私の甘えと言うほかない。最初の段落でも私のブログ投稿と私の信念とは齟齬を生じているという結論が導かれたが、ようやく一ヶ月の間そこそこのペースで続けることができたブログ投稿を信念に従って中断できるほど心の強い人間ではない。この文章は全体私の心の弱さの発露である。というかなんで、ブログを書いているだけでこう自責の念のようなものを感じなくてはならないのか。バカバカし過ぎる。