日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

2月15日 火曜日

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人が何事かを為すとき、それを可能ならしめてるものは人間力である。人間力を離れては、どんな些細な所願も果たされることがない。何らかの事がらの達成は、分析してみれば確かに色々の具体的な事実にその要因を帰することができるだろうが、それらの統一について考えたとき、やはり人間力の在りしを肯わないではいられない。というより、ある過去の事がらの達成に関して、その要因を分析し列挙することによってではその達成を説明し尽くせないのであれば、その剰余の部分は人間力の領分とするのが妥当なのである。

この剰余の領主は、多くの場合運、つまりラッキーが引き受ける。しかし、「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあるように、運とて”人事”に一切無頓着でいることは無く、そこには極性、走性と言えそうなものがある。人間力という概念はその点、ただラッキーと言うのでは説明しきれない、なぜ運が”都合良く”向いてくるのかを説明しようとして持ち出すものであるかもしれない。もっと言えば、これは運に限った話ではない。人々は普通思われているよりずっと多くのことについて”やればできる”。過去を振り返ってみればいくらでも”やればできる”ことはあったわけだが、特定のいくつかが(”都合良く”)実際に達成されたことについては、その所以として人間力が相応しい。

そのようであるからして、人間力とは何かという問いはもはやナンセンスである。しかし敢えてそこを言わんとすれば、それは以下のようになろう。すなわち人間力とは、human being と言うときの be という動詞のダイナミクスであり、無勢の”勢力”である。これらの不明瞭な表現が「分からない」の同義語であるだけではないということはせめて伝わることを期待する。

そして、人間力とは何かとさえおちおち問えないのだから、人間力はいかに養われ高められるかについても無論同様である。ただ人間力は一度その存在を悟ると、以後漠然とその”勢力”を感じることができるように思う。そこから、人間力をより具さに感じることが、つまり具体的な事実の奥に、偶然的な事実の奥に人間力を垣間見ることが、人間力を一層強く発現させることへ繋がるようにさえ思う。

 

人間力説について考える過程で一つ思われたことは、事を成すに当たって必要なのは、「頑張る」ことより寧ろ「流れ/波に乗る」ことではないかということである。言い換えれば、硬直して逆風に耐えるより鷹揚に構えて順風に帆を張る方が、己の直接的な行為や信念を信じるより間接的に影響する平素の善い生への志向や取り巻く環境を重視する方が、成功の本質に接近しているように思われるということである。「頑張る」(「波」の方に表現を寄せるなら「漕ぐ」といった感じか)では、自力の意味が強すぎる。他力と自力のバランスで言えば、「波に乗る」ぐらいがちょうど良かろう。

そう思うと、人間力は「デコイ」なのである。分かりやすい、そして自分の”気持ち良い”対象に成功の原因を不用意に帰すことがないように、かといって全く自分に功がないなどと抜かす慇懃無礼を働かないように、分かるようで分からない、ちょっと分かる人間力にそっと楯を添えるのである。しかしとはいえ、人間力は全くの虚構ではない。いや、人間力がもはや虚構では無くなった、つまり人間力が発現した人において、同時にその効験が現れ、結果的にデコイの役割を果たすのである。