日進ムーンウォーカー

Alien to people, Behind people, Closed to people, Distant from people, Eliminate me Fujita

3月22日 火曜日

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中学のときのことだが、THE(ジ)が付くほどお人好しの同級生が、人格形成に失敗したらしい鬱陶しくてつまらない同級生につきまとわれてかなり辟易していたことについて友人と話していたら、話しているうちに怒りのボルテージが上昇していき、二人でその場にいない輩に対し語彙の限りを尽くして罵ったことがある。今思い出してみても、暖が取れそうなくらい心の芯からポカポカ怒りが湧いてくる。

このTHE・お人好しの彼にとっての輩もきっとそうだが、最低限社交的に生きていると、時々殴りかかりたくなるほど面白くない人間と会うことがある(殴りかかりたくなるほど不愉快に感じるこちらにもいくらか問題があるのかもしれないが)。特に私は、わりと短気なことに加えて、小学生の頃コミセンでカラテを習っていたので、「殴りかかりたくなるほど不愉快」に感じることがおそらく人より多い*1。そしてこういう人間は、私を何重にも悩ませる。

この悩ミルフィー*2の第一層は、「こんな奴の相手してるだけ、時間のムダではないのか...?」という想念との戦いである。

例えばもし私が、しょうもない知人から島田紳助の現在について小一時間語られる時間があったとするなら、私は同じだけの時間を自室の本棚の本を五十音順に並び替える(という十分ムダな行為)に費やしたほうがよほど良いと考えるだろう。そしてそれより有意義な時間の使い方はいくらでもある。島田紳助の近況の話を聞くというのは、私にとってほとんど最悪な時間の使い方である。なんとなれば、心底興味がないから。そして島田紳助の話を聞いている間、私はきっと人生の有限な時間の一部を言わば現在進行形で奪われていることに、弱からぬ怒りを覚えるだろう(島田紳助は悪くない。芸能界を干される程度にしか、悪くない)。

ここで、不意に第二層に到達する。それは、自身の不寛容さ、狭量さを情けなく思う気持ちから成る。

夢中になって島田紳助トークを展開する相手に対し、心の中で見下したり、あるいは実際に意地悪い態度を取ってしまったりといったこと、つまり相手に対する非礼や不誠実を情けなくまた大人げなく思うのもそうだが、この程度の時間の浪費にさえ苛立ちを覚え、この程度のことで相手に失望してしまう自分の器の小ささもまた情けなく惨めに感じられてしまうだろう。この後者について、単位時間あたり(?)に得られる何らかの利益の量(?)のことを「タイムパフォーマンス」というらしいが、ことあるごとに「タイパ」が意識される人生ぐらい、さもしくみっともない人生は私にはない。それはもちろん、我々が人生の中でする大概の行為は、時間対効果が高ければ高いほど良いものである。しかしこれは、言ってみれば美学の問題である。不器用さや拙さ、遅さを愛せない人生は間違いなく、味気なく軽薄なものであるに違いない。島田紳助トークを聞きながら、そんな風なことを考え始めるだろう。

そして暫定最後の第三層において、そういう美学がどうこうとか下らないことに思いを巡らせて悦に入っている自分が至極ダサく思われて、虚しくなる。

特に、そうやって「このクソ田伸介トークに付き合ってやることが大事だ!*3」のようなおこがましくてバカバカしい理屈を捏ね上げている間、目の前の相手と真面目に向き合おうとしていないわけで、それは人生がどうこうとかいう身の丈に合ってない問題よりよほど現時点で問題なのではないか、と思われるだろう。そしてこのあたりで、もう考えるのが億劫になってくる。というか、過去実際になった。そして今こうブログに書き起こしてみて、やっぱりこの辺でもう何でも良くなった。

それでも、人生がどうこうみたいな話はさておいて、人と交際するにあたっては、寛容さと妥協ぐらい大事な徳目はないと思われる。ただ、寛容さは軟弱さではない。本当は、島田紳助の話を小一時間ぐらいしようと意気揚々の変態に対して、レバーを手前に倒して「う~ん」と意思表示ができるのならば、それが一番良い。

 

 

 

*1:ちなみにKARATEは、青帯とかになったくらいで辞めた。今思うと、青帯ってどれくらいエラいのか全然分からない。

*2:「なやみるふぃーゆ」。言うまでもなくそんなものは存在しない

*3:重ねて言うが、島田紳助はB力団の人たちと深イイ関係にあった程度にしか悪くない。